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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第9章 島津の進入と大島・沖繩⑧

8.甘藷と甘蔗

【解説】
 沖縄の製糖と、島津の専売については、郷土史を語るうえで重要なので、1項を設けた。
 本文の表現を整理した。せっかくの史料なのだが、もう少しそのレートが住民に不利なものだったことがわかるものが必要だと思う。全体を見直す段階で、リサーチして書き加えたいと思う。

【本文】
 甘藷(サツマイモ)と甘蔗(サトウキビ)が伝来し、この2つの作物が奄美大島の気候・風土に適していることがわかると、米・麦の栽培がだんだん甘藷と甘蔗に代わっていきました。薩摩藩では砂糖の利益に目をつけ、奄美大島の住民を強制してたくさんの砂糖を作らせ、その利益はすべて取りあげてしまい、住民は困難に陥りました。
 甘藷は1605年に中国から沖縄に入ってきて、奄美大島へは沖縄から伝わったと言われます。畑の作物としては米・麦などよりも栽培がしやすく、たちまち全沖縄に広がり、100年もたたないうちに、住民の常食となりましたす。
 一方、甘蔗からの製糖法は奄美大島・大和浜の直川智(すなお かわち)が明から伝えたものです。沖縄に行こうとして暴風のため大陸に流れ着き、そこで黒砂糖の製法を学び、甘蔗の苗を持ち帰りました。それ植えて100斤(60㎏)のさとうをつくったのが1610年、島津進入の翌年のことです。砂糖を日本で作ったのはこれがはじめてのことで、直川智は日本における製糖の元祖です。
 島津氏は1745年から、租税は米三合六勺(0.5406ℓ)につき、砂糖1斤(600g)の計算でこれを納めさせ、30年後には、租税ののこりの砂糖もすべて藩が買い上げるようにしました。
 江戸・大阪などの大都市では、生活が豊かになり、人口も増えたので砂糖の消費が多くなっていました。しかし、日本の本土では砂糖の生産は少なく、薩摩藩の砂糖は非常に重要な産物でした。だから沖縄でも奄美大島でも砂糖の藩による専売の政策は強化されていきました。1829年には租税以外の砂糖もすべて藩に売ることを強制し、砂糖を少しでも家に隠していたり、商人に売ったりした者は死刑にするということになりました。
 また砂糖はお金で買い取るのでなく、物々交換でした。砂糖を安く買い上げ、交換する品物を高く売り渡すので、薩摩藩庁はこの砂糖のビジネスで大きな利益を上げ、一方奄美大島の住民は、苦しい生活を強いられたのでした。
 物々交換のレートの一例を見てみましょう。1升=1.8ℓ、1斗=18ℓ、1斤=600gです。

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 このような不公平な価格で、薩摩藩は砂糖を買い取っただけではなく、奄美大島では通貨の通用を禁じてしまったのです。その禁が解かれるのは、明治6(1873)年のことでした。

【問題】
一、島津が沖縄に攻めてきた理由は何ですか。
二、謝名利山の政治家としての対応についてどう考えますか。
三、明清との朝貢貿易は沖縄にどんな不利益をもたらしましたか。
四、奄美大島ではなぜ通貨の使用を禁じたのでしょうか。
五、沖縄県の製糖業の歴史をまとめてみましょう。

【原本】
 甘藷と甘蔗がつたわって来て、この二つの作物が気候・風土にてきしていることがわかると米・麦のさいばいがだんだん甘藷と甘蔗にかわって行きます。島津藩では砂糖の利益に目をつけ大島の住民を強制してたくさんの砂糖を作らせ利益はすべて取りあげてしまうので住民はひどいなんぎをすることになります。甘藷は一六〇五年に中国から沖繩につたわり、大島へは沖繩から入って来たといわれます。
 畑の作物としては米・麦などよりも有利なものだからたちまち全群島にひろがり百年もたゝぬうちに一ばん住民の常食となります。砂糖は直(すなお)川智(かわち)という人が中国からつたえたものです。川智は大島・大和浜の人です。沖繩に行こうとして暴風のため中国にながれつき、そこで黒さとうの製法をならいかぼえ、さとうきびの苗を持ち帰りこれをうえて百斤のさとうをつくったのが一六一〇年、島津進入のよくねんです。砂糖を日本でつくったのはこれがはじめてで直川智は日本の砂糖の元祖といわなければなりません。
 島津氏は一七四五年から租税は米のかわりに砂糖をとることになり(砂糖一斤と米三合六勺のけいさん)三十年後には、租税ののこりの砂糖もすべて藩主が買い上げ商人には売らさないようにして行きます。
江戸・大阪等の大都市は砂糖の消費が多くなりつゝあるが、日本内地には砂糖の生産はすくなく、ひじょうに有利な産物ですから沖繩でも大島でもこれを藩庁の専売にして利益をあげる工夫をしています。一八二九年には前の規則をつよめて租税の外の砂糖もすべて藩庁に売らなければならぬ、砂糖を一斤でも半斤でも家にかくしておいたり、商人に売ったりした者は死刑にするということになりました。
 又砂糖はお金で買いあげるのでなく必要な品物を人民にかき出させ、その品物を一度にわたすのです。砂糖をやすく買いあげ品物は高くうりわたすから藩庁は大利益をえて人民はえらい損をこうむっているわけです。品物と砂糖の代を少しあげて見ましょう。品物と砂糖の代を少しあげて見ましょう。
 品物         代糖    品物      代糖
 百田紙 一束(二百枚)二十五斤  大丸墨 一丁  九斤
 鉄鍋 一ケ      二百斤   フロシキ 一枚 大二十八斤
                          中十八斤
 昆布 一斤      三斤     米 二斗八升  百四十二斤
 一寸釘 百本     四斤     洒 一升    廿五斤
 二寸釘 百本     六斤     油 一升    廿斤
 このような不公平なねだんで砂糖を買いとったばかりでなく銭の通用をきんじてしまったので大島では明治六年まで銭はつかうことが出来ませんでした。
【問題】
一、どういう理由で島津が攻めて来ましたか。
二、謝名のやり方をどう思いますか。
三、中国貿易はどんな不利益がありましたか。
四、なぜ大島で銭つかいをきんじたでしょうか。
五、砂糖と品物との交換が人民に不利益だったことを説明してごらん。

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