鉄道の歴史Ⅱ(戦後編)⑤ 高度成長期の近代化
昭和25(1950)年、北朝鮮軍の侵略によって始まった朝鮮戦争は、我が国に「特需」による戦後初の好景気をもたらしました。高度成長の土台が作られたこの時期、鉄道の世界においても、新しい試みが次々と行われました。
国鉄においては、この年に走り始めた初の長距離電車・湘南電車を皮切りに、近代化が押し進められました。従来の直流に加えて、交流電化方式が実用化されたのもこの時期です。交流は、地上設備が簡単になり、機関車の性能も有利で、経済的でした。その技術は第2次世界大戦前にドイツで開発され、戦後、ドイツを占領したフランスがその技術を基に実用化していました。 大量発注を条件とされたため、フランスからの技術移転はできず、国鉄は、車両、電気メーカーの協力の下、昭和28 年に交流電化調査委員会を設け、昭和30 年から仙山線仙台-作並駅間で実験を行いました。そして2年後、北陸本線田村-敦賀駅間で本格的な営業運転が開始され、成果を挙げました。この交流電化の技術は、新幹線に応用されることになります。
一方、地方線区では、ディーゼルカーが投入され始めました。戦前はあまり注目されなかったディーゼルカーでしたが、敗戦直後の石炭不足を補うものとして、改めて開発が進められました。都市部の非電化区間では、通勤需要から連結運転の必要が生じ、昭和33年以降は液体変速機を持つ高性能のディーゼルカーが登場し、少しずつ蒸気機関車を駆逐していきました。
さて、高度成長期に誕生した特筆すべき列車が2つあります。
ひとつは、昭和33年11月1日に登場した、特急「こだま」です。東京-大阪間を6時間50分で結び、日帰りを可能にした「こだま」は、ビジネス特急と呼ばれました。専用の20 系(後に151系と改番)電車は、車体構造、室内設備など随所に新設計が取り入れられ、クリーム色と赤色の塗り分けは、その後、国鉄特急列車のシンボルカラーとなりました。
もうひとつは、「こだま」が登場する1 ヶ月前に走りだした、東京-博多間の寝台特急「あさかぜ」です。この列車に用いられた20系客車は、軽量構造で全車に冷暖房を完備した、当時としては非常にデラックスな車両でした。ボディはブルーに白線。いわゆるブルートレインのはしりです。
昭和31年の『経済白書』にあった「もはや戦後ではない」という言葉は、決して大げさな表現ではありませんでした。日本経済は戦前の水準を超えました。神武景気、岩戸景気の時代を迎え、国民生活の向上と共に、鉄道も大きく進歩していったのです。
連載第142 回/平成13年3月14日掲載
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