鉄道の歴史Ⅱ(戦後編)④ 新生国鉄の光と影
大東亜戦争末期、唯一東海道・山陽本線に残っていた急行列車も、戦後は一時全廃されて、全て鈍行列車という時期もありましたが、ようやく、東京-大阪間を9時間で結ぶ特急列車が、昭和24年(1949)9月に復活しました。愛称は「へいわ」。名付け親は加賀山之雄総裁代行(後に第2代総裁)でした。
「へいわ」は、翌年1月のダイヤ改正で、戦前の超特急の愛称「つばめ」を引き継ぎました。5月からは姉妹列車「はと」が登場し、8時間で東京-大阪間を結ぶようになりました。
さて戦前は、国鉄電車といえば、大都市近郊の近距離を結ぶものと相場が決まっていました。しかし昭和25年3月に、それまでの常識を破る長距離運転を見越した斬新な電車が登場しました。湘南電車の愛称で親しまれることになる80系電車がそれです。
それまでの電車は、チョコレート色の無骨なイメージだったのですが、湘南電車はオレンジとグリーンに塗り分けられていました。これは東京と静岡を結ぶ電車ということで、静岡特産のミカンとお茶の色を採用したということです。間もなく京阪神地区には、ワインカラーとクリームというシックな塗り分けの80系電車が登場し、今の新快速電車の前身にあたる、急行電車として京阪神間の輸送に活躍しました。正面の2枚窓(初期型は3枚窓)のデザインは私鉄でもブームとなり、後続する各社の新型車にも踏襲されました。
一方スポーツが好きだった加賀山総裁は、組合の人員整理反対闘争、事故・事件の多発で国鉄を包んでいた暗いムードを払拭し、職員の志気を高めるためにと、昭和25年1月にプロ野球球団、国鉄スワローズ(現東京ヤクルトスワローズ)を結成し、セントラルリーグに加盟させました。
こうして、ようやく明るいニュースが続いたのですが、昭和26年、国鉄史上最悪の事故が起きてしまいます。
4月24日、横浜の桜木町駅に入ってきた下り電車のパンタグラフに、上り線で碍子交換の作業中に垂れ下がってしまった架線が絡んで出火しました。先頭車を全焼、2両目を半焼し、死者106名、重軽傷者92名を出す大惨事となりました。桜木町事故です。
惨事の原因は戦時設計の車両にありました。63型と呼ばれるタイプで、中間固定の3段窓、車両間の通路や、ドアを開ける非常コックもなかったので、乗客は逃げることができませんでした。
この事故がきっかけとなり、老朽化した車両の改善が進められることになりましたが、犠牲は余りにも大きすぎました。
「野球や行楽列車にうつつを抜かしていた」と、マスコミからの集中砲火を浴びた加賀山は、東京鉄道局関係者の処分と、謎の死を遂げた下山定則前総裁の3回忌を終えたあと、静かに辞表を提出したのでした。
連載第140 回/平成13年2月28日掲載