外交家列伝① 陸奥宗光(1844~1897)
陸奥宗光は弘化元(1844)年に、和歌山藩士の家に生まれました。若い頃には、土佐の坂本龍馬が組織した海援隊に参加しています。また明治維新の後には政府に参画しますが、征韓問題で西郷隆盛や板垣退助と共に下野した後、土佐の立志社系の政府転覆運動に参加して投獄されるという経験も持っています。
政府に復帰してからは、駐米公使などの要職を歴任し、明治23(1890) 年に第1次山県有朋内閣に農商務相として入閣しました。次の第1次松方正義内閣にも留任しましたが、同内閣による選挙干渉を批判して辞職しました。そしてその直後の明治25年に第2次伊藤博文内閣で初めて外相となりました。
当時の外交的懸案は「条約改正」の問題でした。江戸幕府が開国したときに結んだ条約は、一方的に治外法権や最恵国待遇を認め、関税自主権がないという不平等なものでした。もっとも、幕府や、それを結ばせた欧米諸国ばかりを責めることはできません。その当時我が国には近代的な法体系は完備していませんでしたし、また明治政府も幕府と同じように、例えば、当時独立国であったハワイ王国との間に、先方が有利な条約を結んでいるのです。
明治 22 年、大日本帝国憲法が制定され、近代国家としての条件は整えられました。外務省も条約改正交渉に拍車をかけました。すでに前外相・青木周蔵が英国との交渉を、領事裁判権の即時撤廃と、6年後の関税自主権回復という条件で妥結寸前まで導いていたのですが、大津事件が起こったために引責辞任し、元ロシア公使・榎本武揚に席を譲ったために、交渉はとん挫していました。
陸奥は、駐独大使に転じていたこの青木を駐英大使兼任として、引き続き交渉させ、ついに明治27 年に日英通商航海条約の締結にこぎ着けたのでした。当時我が国は、朝鮮をめぐって清国と対立を深めていましたが、同条約は我が国にとって大きな力となりました。
その直後に豊島沖で日清両国の艦隊が衝突し、日清戦争が勃発しました。戦いは我が国の圧勝に終わり、下関条約が結ばれました。その第1条で、清国に朝鮮の独立を認めさせた我が国は、安全保障面では一歩前進したのです
が、我が国が遼東半島を獲得したことを苦々しく思ったロシアが、独仏両国を誘って、その返還を求めてきたのです。いわゆる三国干渉です。
戦争中、国民の間では、平壌の戦い、黄海海戦での大勝利のニュースに接して以来、「北京へいつ日本軍が進撃するか」が関心事になっていました。陸奥によれば、「妥当中庸の説を唱うれば、あたかも卑怯未練、毫も愛国心無き徒と目せられ」るありさまだったのです。国民の喜びに水を差す、理不尽な三国干渉に直面した政府当局者は頭を悩ませました。
しかし、病身をおして善後策を検討した陸奥は、国民におもねることなく、国力を冷静に鑑み、まさしく「妥当中庸」を貫き、不当な三国干渉と
いう「友誼に基づく忠告」に応え、他日を期したのでした。
連載第25回/平成10 年10 月3日掲載