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スポーツ日本史③ 全力疾走で人生を駆け抜けた人見絹枝

 オリンピックにおける日本人女性初のメダリストを知っていますか。
 人見絹枝は、明治40(1907)年に岡山県御津郡福浜村(現在は岡山市南区)に農家の次女として生まれました。岡山高等女学校ではテニスに熱中していましたが、4年生の秋、請われて出場した県大会の走り幅跳びの部で、いきなり日本新記録を樹立してしまいました。これをきっかけに、彼女の人生は大きく変わることになりました。女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)などへの進学を希望していた絹枝でしたが、校長の薦めもあって、大正13(1924)年、二階堂女塾(現在の日本女子体育大学)へ入学したのです。
 入学した年に三段跳びの世界記録を樹立した絹枝は、一旦は高野節子に抜かれたものの、翌年にはこれを大きく抜き返し、女性アスリートとしての地位を不動のものとしました。
 大正15年、大阪毎日新聞社に入社した絹枝は、たったひとりでスウェーデンのイェーテボリーで行われた第2回国際女子陸上競技大会に参加し、3日間で6種目に挑戦しました。そして走り幅跳びで5m50cmの世界新記録を出すなど、ひとりで団休戦の第5位に食い込んだ驚異的な活躍を見せました。
 帰国後の絹枝はさらにその才能を伸ばし、翌昭和2(1927)年に200mと立ち幅跳びで、昭和3年には100mと走り幅跳びで、それぞれ世界記録を樹立しました。
 そんな絹枝が同年、女子の参加が初めて認められた、第9回オリンピックアムステルダム大会の選手に選ばれたのは当然のことでした。当時の女子種目には、彼女が最も得意とした走り幅跳びはなく、100m走、800m走、400mリレー、走り高跳び、円盤投げだけでした。もちろん絹枝は世界記録を出したことのある100mにエントリーしましたが、含のためにと800mにも名乗りを上げておきました。
 期待の100m。予選を第1位で通過した絹枝でしたが、準決勝で予想外の惨敗を喫しました。その晩は食事もとれず、宿舎で泣き明かしました。「こうなったら、800mで頑張るしかない」。役員の反対を振り切って、絹枝は未経験の800mに出場しました。
 長距離走者ではなく、100mの記録保侍者だった絹枝はペースがつかめませんでした。最初から飛び出した絹枝に対し、日本選手団からの「下がれ、下がれ」という声が上がり、ようやく3番目に後退しました。
 ラスト150m付近でスパート。2位のインガ・ゲンツェル(スウェーデン)を抜こうとした時、ひざにスパイクされて少しよろめきましたが、すぐに立ち直ってこれを抜き去り、トップのリナ・ラトケ(ドイツ)に迫りました。しかし、あと2m及ばず第2位でゴールしました。
 こうして絹枝は、日本人女性初のオリンピックメダリストとなったのです。
 その後も絹枝は、昭和5年の第3回国際女子陸上競技大会に選手団長兼任で参加し、個人総合第2位、団体4位の成績をおさめています。この遠征資金を得るために、全国の女学生から10銭募金を集めるというアイデアを出したのは、絹枝自身でした。
 しかし、度重なる試合と執筆(彼女はジャーナリストでもありました)、さらには講演旅行というハードなスケジュールからくる疲労は、次第に絹枝の体を蝕んでいました。
 昭和6年3月に喀血し、たった4ヵ月の闘病生活の末、絹枝は8月2日に結核でこの世を去りました。享年24歳。その日は、奇しくも絹枝がオリンピックで銀メダルに輝いた日でした。

連載第75回/平成11 年10月6日掲載

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