教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第6章 王国の成立①
第六章 王国の成立
一、尚巴志と三山の統一
【解説】
相変わらずの微笑ましい勇み足である。尚巴志の登場とともに、その王朝の滅亡に脈絡もなく触れてしまっている。語りたい感情が伝わってくる。
しかし、それでは余りにも味気ない。王朝崩壊の事情は、次回がメインなので、ここでは触れないようにした。
高校の教科書にも登場する尚巴志の事績については、もう少し詳しくてもよいような気がする。これをまとめるときには、リサーチして書き加えようと思う。
【本文】
三山時代の末ごろに佐敷の按司であった尚巴志は、1406年にまず浦添に兵を進め、察度王の子供(武寧)を攻めほろぼし、自分の父を中山王としました。これが尚思紹王です。ここから始まる王家を第一尚氏といいます。
1416年には北山王を攻めほろぼし、中頭、国頭地方を支配下に入れました。北山城は今帰仁村今泊の東南、海抜約75mの丘の山にあり、三重の石垣をめぐらし、周囲は1㎞以上に及んでいました。
巴志が父の跡を継いだころには、すでに浦添から首里にうつり、城を築いたと考えられます。即位して8年目の1429年に南山を攻め滅ぼし、20余年の間に三王を倒し、初めて沖縄に統一王国を建国しました。
尚巴志の人物を語るエピソードはいろいろあります。
巴志は若い頃、与那原の鍛冶屋に剣を作るように頼みました。鍛冶屋は農具を作るのに忙しく、3年の後にようやく素晴らしい名剣ができあがりました。ちょうど外国船が鉄塊をつんで与那原に来ており、巴志はその剣と船一ぱいの銃塊と交換したのです。そして巴志はこの鉄を与えて農具作らせ、農民を喜ばせたという伝説があります。
察度が鉄の農具を百姓に与え、その後人々に推されて按司となり、王になった話とよく似ています。石や木でつくった農具しか持たない農民にとって、鉄の鋤や鍬がいかに強い魅力を持っているか、また鉄製農具を持つ農民が生産力を増大させ、その領主が政治的にも、軍事的にも有力になっていったのだということがわかります。
伝説はそのままの事実ではないにしても、鉄農具がいかに責重なものであり、農民がこれを大切なものとしていたかということがわかります。
南山王が支配していた嘉手志川と金屏風を交換した話も、尚巴志の優れた政治力を物語っています。
嘉手志川は高嶺村大里にある泉川で、南山城下の水田用水となっていました。南山王の他魯毎(タルミー)は、巴志が持っていた金屏風をしきりに欲しがったので、この泉川と交換しました。
巴志はさっそく家来をやって水の使用も水田への引水も禁じました。困り果てた農民は、水田からあがる米の一部を上納する約束をして、引水を許してもらいました。巴志はその米を貧民にあたえるなど、善政を施しました。南山城下の農民まで自分に傾いたのを見て、巴志は兵を率いて南山を攻め滅ぼしたということです。
用水権を握っている者が農民に対し強い力を持っていることがわかります。それと共に、巴志が単に軍事にすぐれた人物であったばかりでなく、政治的にもすぐれた才能を持っていたことがわかります。
尚巴志は首里に都したので、その入口として泊と那覇が牧港に代わって栄えるようになりました。それまでも泊港、那覇港に船が出入りしていたのですが、那覇はもともと湾内の小島であったのが、今の崇元寺から長い上堤をつくって陸とつながったので便利になり、港町として大きくなっていきました。国外との通交がさかんとなるにつれ、仏教、道教、神道も伝わり、社寺の建立がさかんに行われました。
こうして尚巴志が打ち立てた第一尚氏王朝は、70年間続くことになります。
【原文】
第六章 王国の成立
一、三山の統一
三山時代の末ごろに佐敷の按司尚巴志はまず浦添に兵をすゝめ察度王の子供(武寧)を攻めほろぼし(一四〇六)、自分の父を立てゝ中山王としました。これが尚思紹王です。(この王家を第一尚氏という)
十年の後(一四一六年)に彼は北山王を攻めほろぼし、中頭、国頭地方を支配下に入れました。
北山城は今帰仁村今泊の東南、海抜二百尺の丘の山にあり、三重
の石垣をめぐらし、周囲十余町。
巴志は父のあとをつぎますが、このころ、すでに浦添から首里にうつり、城をきずいたと考えられます。王になって八年目(一四二九)に南山を攻めほろぼし、二十余年のあいだに三王をたおして初めて沖繩を統一し中央政府をたてました。
尚巴志はたしかにすぐれた武将であったがその子弟・家来たちにはこれぞという人物がいなかったので七十年で革命がおこりこの王家はほろんでしまいました。
巴志は青年の時、与那原に行きかじやに剣をたのんだ。かじやは
農具をつくるにいそがしく三年ののちようやくすばらしい名剣が出
来あがった。時に外国の船が鉄塊をつんで与 那原に来たもの
があり、この剣を見て船一ぱいの銃塊とかえた。巴志はこの鉄を農
民にあたえて農具をつくらせ百姓をよろこばしたという伝説があり
ます。
察度が鉄の農具を百姓にあたえ人民におされて按司となり王にな
った話とよくにています。石や木でつくった農具しかもたぬ農民に
とって、鉄のすきくわ等がいかに強いみりょくをもっているか、と
いうこと、又これをもつ農民がけっきょく生産力を増大させ、その
領主が政治、軍事の上に有力となったということがわかります。
今一つの話は南山王の支配する嘉手志川と巴志の金屏風とかえた
話。この川は高嶺村大里にある泉川で南山城下の水田用水となって
います。南山王他魯毎(たるみー)は巴志がもっている金屏風をし
きりにほしがるので、この泉川と交換しました。巴志はさっそく家
来をやって水の使用も水田への引水もきんじました。困りはてた農
民は水田からあがる米の一部を上納するやくそくをして、引水をゆ
るしてもらいました。巴志はその米を貧民にあたえるなど善政をほ
どこし、南山城下の人民まで巴志にかたむいたので、兵をひきいて
南山を攻めほろぼしたということです。
この話で、用水権をにぎっている者が農民に対しつよい力をもっ
ていることがわかると共に、巴志が単に軍事にすぐれた人物であっ
たばかりでなく、政治的にもすぐれた才能をもっていたことがわか
ります。
伝説はたとえそのまゝの事実ではないにしても、鉄農具がいかに
責重なものであり、農民がこれを大切なものとしていたかというこ
とがわかります。
第一尚氏は首里に都をつくったために、その入口として泊と那覇が牧港にかわるようになります。これまでも泊および那覇港に舟が出入しているが、もともと、那覇は湾内の一小島であったのが、今の崇元寺から長い上堤をつくって島をつないだのでだんだん便利となり、港町として大きくなって行きます。国外との交通がさかんとなるにつれ、仏教・道教・神道も伝わり社寺の建立がさかんに行われ次の時代の尚真王の時までつゞき、精神文化もさかんに輸入せられることはあとで話します。