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なにわの企業奮戦記① 森下仁丹株式会社

 昔ながらの古めかしい商品名。一粒で口の中に広がる独特の清涼感と生薬の香り。口中清涼剤の代名詞とも言える「仁丹」は大阪生まれの薬です。
 昭和11(1936)年に設立された森下仁丹株式会社の創業者森下博(写真)は、明治2(1869)年に現在の広島県福山市に生まれました。満足に学校教育を受けることはできませんでしたが、福沢諭吉の著書に触発された博は、15歳の時に、大きな志を胸に、叔父を頼って大阪にやってきました。

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 博は心斎橋で丁稚奉公を始めました。商才豊かで、仕事熱心だった博は、わずか9年で別家が許され、明治26年に薬種商「森下南陽堂」を開業しました。
 間もなく博は、オリジナル製品を販売しはじめましたが、最初のヒット商品は「毒滅」という梅毒薬でした。ドイツの名宰相ビスマルクの肖像画をあしらった大々的な広告も功を奏し、この新薬は一躍森下の名を全国に広めました。
 その頃既に、博の頭の中には、万能薬「仁丹」のアイデアが膨らんでいました。明治28年、日清戦争で台湾に出征した博は、現地で常用されている丸薬にインスピレーションを感じました。飲みやすく、しかも携帯・保存に便利で、当時は文字通り「万病のもと」であった食あたりや風邪に効果がある薬を作れないものか…。 
 帰還した博は、自ら処方を研究し、薬学の権威にも協力を求める一方、丸薬の本場・富山で生産方法などを学びました。そして明治33年には、まだ製品が完成していないにも関わらず、「仁丹」という商標を登録しています。博の新薬に賭ける意気込みが感じられるエピソードです。「仁」は儒教の教えから。「丹」はあの台湾の丸薬の名前からとったものです。
 日露戦争で、難攻不落の旅順要塞が陥落した直後の明治38年2月、最初の「仁丹」が発売されました。現在の「仁丹」は銀でコーティングされていますが、当時の「仁丹」は、丸薬の携帯性・保存性を高めるために「ベンガラ」でコーティングされた赤粒でした。これは博のアイデアによるものです。
 この「仁丹」は博の期待通り、爆発的な売れ行きを見せました。
 発売当時から「仁丹」は、今日にも引き継がれている「大礼服マーク」を商標に採用していました。日露戦争の熱気が国内に充満していた時に生まれたものなので、モデルは軍人か、と思われがちですが、博が、後に社長になる孫の泰に「あれは外交官なんだよ」と語ったそうです。博は、「仁丹」を健康と保健を世界に運ぶ外交官に見立てていたというわけです。

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 「仁丹」=外交官という博の思いは現実となります。発売の2年後には、早くも輸出部が置かれ、中国、インド、東南アジア、南米諸国、果てはアフリカのエチオピアにまで販売網を拡張していきました。 
 一方博は、今日さながらの広告戦略で、当時の人々を驚かせました。大阪駅前に作られた巨大な広告塔、薬局の店先や街角に飾られた看板、新聞の全面を使った広告は、その効能と共に「仁丹」の名前を人々の間に浸透させていきました。
 戦災によって大きな被害を被った森下仁丹でしたが、近代化と多角化によって見事に立ち直りました。創業者のスピリットは、森下仁丹が総合保健会社に成長した今も息づいています。

※写真はいずれも森下仁丹株式会社提供。『大阪新聞』掲載時、旧サイトアップロード時に同社より使用許可を得ています。
連載第103回/平成12年5月24日掲載

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