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「アメリカ人にだって本音と建前はある」の巻

■「敗者ならば戦争犯罪」という自覚
 昭和20年3月10日未明に行われた「東京大空襲」を英語版ウィキペディアでひくと、"Bombing of Tokyo" という項目の中で、他の東京で行われた空襲と一緒にひとまとめに表記される。日本語版が「東京大空襲」(以下、東京大虐殺とする。筆者の主張である)の項目を持っているのに対し、それを相対化しているような気がして、不快感を覚える。
 この東京大虐殺の指揮官であったカーティス・ルメイ将軍が、「我々が負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸いにして私は、勝者の側に属していた」と語っているように、米軍内にも東京大虐殺は「戦争犯罪」だという認識はあったのだ。しかしここで図らずも語られているように、勝者は戦争犯罪で訴追されることがないという二重基準は明らかに存在する。勝てば官軍。だから、「東京裁判」(以下、東京偽裁判とする。これも筆者の主張である)で、原爆に対する追及が封殺されるのも当然のことなのだ。

■二重基準はアメリカの本音と建前
 アメリカ人のビジネスマンは、日本人の「前向きに検討します」という言葉に期待して裏切られる。しかし、彼らに裏表がないかといえば、そうではない。彼らは自己中心の二重基準を持ち、それを器用に使い分けている。二重基準は、アメリカを理解する上で非常に重要な概念だ。言い換えればこれは、アメリカ流の「本音と建前」の使い分けなのだ。
 人種差別は当然のタブーだ。しかし実際には白人に限らず、ある種のエスノセントリズムが、多民族国家内だからこそ顕著に見受けられる。例えば、日系4世とは4代前に移民してきた日本人の子孫で、日本人の血だけを引く人のことを指す。以前にも書いたが、混血者のことを日系人とは言わない。つまり日系社会とは、多民族国家アメリカの中で民族的近親婚を繰り返すコミュニティなのである。筆者の体験によれば、年配の日系人には支那人、朝鮮人(彼らは英語の中にこの日本語の単語を交える)を嫌う人が多い。それは、私たちの先祖が持っていた、生活習慣の違いからくる素朴な差別感情と似ているような気がする。
 日系人だけではない。移民社会ではどうしてもある程度の住み分けが起こる。それが自然に差別を助長する。だからといって、コミュニティを人工的に破壊することはできない。
 最近の調査によれば、黒人が多いミシガン州デトロイトにおける高校卒業率はわずか20数パーセント、大学進学率は8パーセントに過ぎないという恐るべき統計が発表された。「悪い地域」から人々は郊外へ脱出し、そこにしか住めない人だけが取り残される。地元民は「あそこは○○人が多いからヤバイよ」と囁きあう。差別や人権に敏感なはずのアメリカに、日本以上の地域差別が存在する。まさに本音と建前だ。
 男女平等にも二重基準がある。アメリカには女性管理職も多く、仕事ができれば原則的に性では差別されないとされる(実はこれも怪しいのだが)。ところが驚くべきことに、殆どのアメリカの家庭では、今も家計の主導権を夫が握っている。妻は夫から決まった金額を渡され、それだけでやりくりする。妻の給料は共同名義の預金口座に入る(アメリカでは夫婦共同名義の口座が普通だ)ので、夫が管理している。社会の男女平等と家庭の男女不平等という二重基準に、進歩的なはずの女性が気づいていない。全米一人気があるテレビショー『オプラ』で面白いトークがあった。アメリカの概念で言えば、男尊女卑で苦しんでいるはずのムスリムの女性が、「私たちは働かないでよいし、男性が全て守ってくれる。それに比べて、外で働き、家庭でも働くアメリカ女性は不幸だ」と、彼女より自由だと信じているアメリカ女性を本気で哀れんで評していたのだ。
 筆者は、アメリカの二重基準的本音と建前論の根本は、プロテスタント流の聖書解釈にあると考えている。この件については、いずれどこかで詳述したい。

■「勝てば官軍」の二重基準
 私たちが関心のある歴史問題でも二重基準は存在する。ルメイに言われるまでもなく、東京大虐殺は明らかに民間人を狙った悪質な戦争犯罪である。しかし、多くのアメリカ人は戦争中に都市空襲が作戦として行われるのは当然だと考えている。通常兵器による空爆である東京大虐殺を絶対化することはできないと合理化する。それがWikipediaの記述に反映されたのだ。ところが、日本軍が行った重慶爆撃は非難される。東京大虐殺との間の論理的な区別は、自由と民主主義を守るためならば、多少の犠牲はやむをえなかった、というフィクションだ。しかしそれならば、ならず者国家・ソ連と手を結んだことは説明がつかない。アメリカ人も、流石に原爆には多少の後ろめたさはある。しかしそれとて、戦争犯罪だからだというのではなく、戦争が続くことでさらに多くの日本人やアメリカ兵の命が奪われることを考えればやむを得なかったという、例の言い訳で誤魔化される。要するに、アメリカがよければよくて、アメリカが認めないものは認めないということだ。

■アメリカは謝罪などしない
 そういった唯我独尊的アメリカ政府が、過去の過ちを認めて謝罪したという例は対外的にはない(国内的には、マイノリティに対する過去の差別に対して謝罪した例はある)。日本人が運動すれば、東京偽裁判の再審請求が受理され、アメリカ政府が遠くない将来に、東京大虐殺、広島・長崎大虐殺の非を認める日が来ると期待するのは野暮だ。そんなことをすれば、アメリカの歴史そのものが否定されてしまう。我々はアメリカに謝罪を求めるのではなく、アメリカの正義感に訴えて、尚且つ彼らの二重基準をクリアできるお膳立てをして、日本の冤罪を晴らすという戦術を考える必要があるのではなかろうか。

『歴史と教育』2009年3月号掲載の「咲都からのサイト」に加筆修正した。

【カバー写真】地べたで寝ているホームレス。場所は危険地帯であるサウス・ロサンゼルス(どの人種が多く住んでいるかは以前書いた)。ホームレスは役所に申請すると、日当?がもらえるらしい。さらには、慈善団体や教会がタダで食料をくれる。○○○は3日やったらやめられないというが、アメリカのホームレスはその日のうちにやめられなくなるだろう。(撮影:筆者)

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