「今はなきチームの思い出」の巻
また昔話である。
筆者は野球に目覚めるのが遅かった。父はラガーマンだったので、幼稚園の頃に花園には連れて行ってくれたが(スコアボードにあった近鉄、トヨタ、大阪府警のチーム名を何故か今も鮮烈に覚えている)、小1の5月に父は亡くなった。だから野球場には一度も連れて行ってもらうことはなかった。
新聞屋に日米野球のチケットを貰い、初めて甲子園に見に行ったのが、全日本対ニューヨーク・メッツの試合だった。当日出場したかどうかはわからないが、トム・シーバーやフランク・ロビンソンがいたはずだ。田淵幸一が捕手ではなく、野手で登録されていたことも覚えている。昭和45年のシーズンオフの話だ。それをきっかけに突然プロ野球への興味が開花し、翌シーズンからは新聞で試合結果を見るようになった。もちろん、地元阪神タイガース、そして、南海ホークスのファンだった。日米野球はもう一度、昭和48年のオフに、南海巨人連合軍の試合を見に行った。相手チームはもう覚えていない。
南海ファンの方は、野村克也が更迭されたときにやめた。もともと、大好きないとこの姉ちゃんが二軍の寮の近くに住んでいた(遊びに行ったときに島本講平を目撃したことがある。電車の中で池内豊も見た。姉ちゃんは門田博光にも会ったことがあると言っていた)→何となく南海ファン(その姉ちゃんの父である伯父は阪急ブレーブスファンだったが)→野村克也という凄い選手がいるから野村ファン、だったから、野村がロッテ、西武と移るたびに、贔屓チームは変わっていき、野村引退後はそのまま西武を応援していた。
阪神の方は、渡米するまでは熱狂的なファンで、渡真利選手の個人後援会の末席にいたり、雑誌記者時代の取材で私設応援団の顧問に気に入られたりと、いろいろあった。未だになんとなく気にはなっているが、これまたファンだった遠井吾郎が亡くなって、なんとなく熱が冷めてしまった感じがする。心ひそかに応援はしているが。阪神が勝つよりも巨人が負けるほうが嬉しい。
阪神はともかく、南海はもうチームさえなくなった。先日、なんばパークスで大阪球場あとを見に行って、娘をキャッチャーズボックスの位置にしゃがませて写真を撮ってきた。野村の南海での記録がやっと展示されるようになった展示室も見てきた。
野村南海の記念品は何も残っていないのだが、実はやはりなくなってしまった東映フライヤーズのバッジを持っている。これは、駄菓子屋のガムの景品なのだが、当たったときに、欲しかった南海のものがなく、阪神や巨人のものも勿論すでになく、やむを得ず東映のをもらったというわけだ。いつか高く売れるかもと、未だに捨てずに残している。
さて、写真(2003年8月21日撮影)と何の関係もなさそうな長い前置きだった。しかし、南海ホークスと同じく、今はなきチームの試合の写真なのだ。
Dodger Stadiumで風になびく米加両国旗。もちろん試合前の国歌斉唱は、米加両国国歌。もちろんワールドシリーズ、というわけではない。
この試合の対戦相手は、ワシントン・ナショナルズになってしまった、モントリオール・エクスポズ。つまり、カナダのチームということで、冒頭のようなセレモニーがあった。ちょっと得した気分だ。
モントリオールにチームがあったことすら、最近のファンは知らないかも知れない。読売ジャイアンツにいたウォーレン・クロマティが在籍していたことなど、もっと知らないだろう。クロマティ自体を知らんだろうから。
カナダのチームとして、アメリカンリーグに、トロント・ブルージェイズがあるが、トロントとの交流戦が実現するまでは、もうこのシーンはDodger Stadiumでは見られない。
野村克也が亡くなってしまって、南海ホークスの身売り、そしてこの写真を思い出したという次第。
拙ブログ『無闇にアメリカに来てはいけない』より「シーズン中のワールドシリーズ」(2005年07月04日 07:02付)に加筆修正した。