外交家列伝④ 幣原喜重郎(1872~1951年)
幣原喜重郎は明治5(1972)年に、大阪府門真市の豪農の家に生まれました。東京帝国大学を卒業後、明治29 年に外務省に入省し、要職を歴任して、大正13(1924)年、第1次加藤高明内閣に外相として入閣しました。ちなみに、三菱(岩崎家)出身である、加藤夫人の妹が幣原の妻・雅子です。その後、第1次若槻礼次郎、浜口雄幸、第2次若槻の憲政会、立憲民政党内閣で外相を歴任し、幣原外交と呼ばれる国際協調外交を展開しました。
その中身は、英米との協調、中国に対する内政不干渉、国際連盟中心主義などで、戦前における我が国の、外交方針におけるスタンダードのひとつでした。しかし、当時の国際社会は、幣原が示した「国際協調」という理念が通用するほど成熟していなかったのです。
国内的には、幣原外交は余り評判の良いものではありませんでした。それは、幣原が内政に意を払わなかったからだと思われます。特に中国との関係では、「軟弱外交」の汚名を着せられました。その典型的な問題が、昭和2(1926)年に起こった南京事件への対応でした。所謂南京大虐殺と言われるのは戦時プロパガンダですが、この南京事件は本当にあったものです。南京に入城した蒋介石率いる北伐軍の兵士が暴徒化し、日英両国の領事館が襲撃されました。また彼らは揚子江に停泊中の外国艦船(中国との条約で認められたもの)を砲撃したので、我が国を除く各国はそれに応酬しました。日本領事館には、館員以外に100 名以上の在留邦人が避難し、しかも病臥中の森岡正平領事が北伐軍兵士を刺激しないよう、警備隊の武装解除をしていたにもかかわらず、彼らは館内に乱入し、略奪、暴行の限りを尽くし、領事夫人をはじめ多くの女性が陵辱されたのです。
しかし、中国への内政不干渉政策を徹底する幣原は、蒋介石に対して事態収拾を勧告する一方、英米に対しては賠償請求の緩和を求めましたが、邦人が多大の被害を被ったことを新聞報道で知った国民は、幣原外交を非難したのです。
幣原の考えは、中国統一の途上で、日本や他の列強が如何なる理由があろうとも、それに干渉することは問題であり、中国の成長を見守ることが必要だということでした。それは理想的な考えでしたが、国際法が守られていない中国大陸に、たくさんの在留邦人がいること、そしてその安全を守ることも外務省の役目であることを幣原は余り意識していなかったようです。
その年、第1次若槻内閣は、金融恐慌処理のための台湾銀行救済案を、樞密院に拒否されて瓦解します。拒否の理由は幣原外交に対する樞密院の不満でした。後を受けたのは立憲政友会の田中義一(陸軍大将)内閣でした。田中首相は外相を兼任しましたが、影の外相となったのは森格政務次官でした。森は幣原の方針を変更しして中国への不干渉政策を修正し、在留邦人の権益を積極的に守ることにしたのです。しかし決して、欧米との協調を捨てたわけではなく、田中内閣の下で行われた山東出兵は、日本だけで行われたのではありません。
田中外交は幣原外交の否定だといわれますがそれは誤りで、田中は幣原の方針を踏襲しつつ、大陸権益を積極的に守ろうとしたに過ぎないのです。
連載第27 回/平成10 年10 月13 日掲載
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