なにわの企業奮戦記④ ミノルタ株式会社 (現コニカミノルタホールディングス株式会社)
大阪の四ツ橋にあった電気科学館のプラネタリウムは大阪名所の一つでしたが、そのあとを継いだ市立科学館の最新鋭プラネタリウムは、カメラで有名な旧ミノルタ株式会社の開発によるものです。同社は、昭和33(1958)年に、最初の国産プラネタリウムを手がけたメーカーでもあります。
ミノルタ株式会社は、昭和3年、光学機器の将来性に着目した田嶋一雄の個人企業「日独写真機商店」として設立されました。国産カメラの製造を志した田嶋は、ドイツから技術者を招き、武庫川の河畔に最初の工場を建設しました。しかし当時の大阪には、精密機械の下請け工場はなく、アルミ鋳物のボディをはじめ、ネジの一本に至るまで「自社生産」でした。そんな苦労を乗り越え、翌年には輸入レンズ・シャッターを組み合わせた第1号機「ニフカレッテ」を誕生させました。「ニ」は日独写真機商店から、「フ」はフォトグラフィー、「カ」はカメラ、「レッテ」は「小さいこと」を示す言葉からとりました。
しかし、当時は不況の真っただ中。思うようにニフカは売れませんでした。社長である田嶋自ら、100台のカメラをトランクに詰め込んで上京し、問屋を廻って売り込みましたが、自社機にプライドを持つ田嶋がダンピングを拒否したため商談は成立せず、1台も売れずに大阪へ戻ってきたこともありました。
その後景気の回復と共に製品の需要は高まり、同社は次々と新製品を世に送り出しました。「ミノルタ」の名前は、昭和8年に発売されたカメラに最初に付けられました。これは、Machinery and INstruments OpticaL by TAshimaの頭文字を結んで命名したものです。「ミノルタ」には、田嶋が幼い頃祖母から「稔る程頭を下げる稲穂のように謙虚であれ」と教えられた、「稔る田」にも通じています。
千代田光学精工株式会社となった昭和12年には、新設の堺工場でレンズの研磨を、昭和17年に設立された伊丹工場では、間もなく成形、プレス加工が行われ、光学ガラスの溶融炉も設置されて、一貫作業体制が確立しました。戦時中は、カメラ生産は自ずと縮小されましたが、同社の光学技術は、双眼鏡や航空写真機などを開発することで、さらに磨きがかかりました。
戦後は、昭和23年に発売されたライカ版の高性能カメラ「ミノルタ35」 を皮切りに、昭和40年代後半にヒットするポケットカメラの先駆けとなった「コーナン16オートマット」(昭和25年発売)など、国民生活の向上、安定と共に、新たなヒットを飛ばしました。
年配の方はご存知だと思いますが、マニュアルでの写真撮影は結構難しいものです。フイルムを現像したあとで、「ピンぼけ」があってがっかりしたという経験は、カメラを手にした誰もが持っている苦い経験でした。また、被写体に向かってピントを合わせているうちに、シャッターチャンスを逃してしまうこともしばしば。しかし、ミノルタが、昭和60年2月に本格的なオートフォーカス機能を備えた「α7000」を世に送り出したとき、素人写真家のそんな悩みは吹き飛んでしまいました。
ある意味で国産カメラの頂点となったα7000の発売を見届けるかのように、同年11月、創業者の田嶋一雄が逝去しています。光学機器に魅せられたひとり人の実業家の思いは、世界的光学メーカーとなった今日のコニカミノルタにも息づいています。
※写真『大阪新聞』掲載時に同社より使用許可を得ていましたが、旧サイト公開時に、流用の許可について回答をいただいていないので、掲載を差し控えます。
連載第106回/平成12年6月21日掲載