教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第8章 王国時代前期の文化③
4.王宮の様子
【解説】
今までになかった「軍士」ということばが出てきた。琉球のことばでもないようで、意味は「兵士。兵隊。また、特に身分の高い兵士。戦に従事する侍」(『精選版 日本国語大辞典』小学館刊による)とある。そのままでもよいのだが、こういう使い方をすると、第二尚氏での官職の名前のようにも見えるので、一般的な「近衛兵」「兵士」に変えたがどうだろうか。
もともと文化は専門外なので、これもまた最後に整理する際に、しっかりと加筆したいと思う。
【本文】
首里城は、内、中、外の三重の構造で、石垣を高くめぐらし、外城に馬小屋と倉、中城に番兵200人、内城に3階建ての家屋は2棟、その中に役人100人、近衛兵100人、侍女100人がいました。兵士は鎧、兜に鉄の面をつけ、鉄のすねあてをしています。そして、刀、盾、槍を持っていました。
尚泰久王の時代、王の外出には近衛兵300人が付き添いました。王は馬や駕籠(かご)に乗り、付き添う兵士は鎧、兜で馬に乗る者、弓矢、槍、剣を持って国王の前後を守る者、歌を歌う者がいました。
国王は家にいる時は官吏と同じ服で、紅白または黒の絹布で頭を包み、外に出るときは内側は赤、外側は黒の笠をかぶっていました。
朝鮮人漂流者が、尚真とその母・宇喜也嘉(おぎやか)の行列について記している資料があります。それを詳しく見てみましょう。
王母(宇喜也嘉)は漆塗りで四方に御簾(みす)をかけた輿(こし)に乗り、それをかつぐ20人の者は、みな白衣をきて布で頭をつ包んでいました。その前後を、兵士100人余りが、剣や弓矢で武装してまもっていました。チヤルメラやラッパなどの楽を奏し、時々花火のような音をだす火砲を放ちました。美女が4、5人、色綾衣(いろあやぎぬ)の上に白の長衣を着ているのが見えました。私達が道ばたで声をだして助けを願うと、輿を止まらせ、錫のびんから木盃に酒をついでくださいました。
そのあとから、やや遅れて少年がついていきました。年は十代前半で、姿は美しく、髪を後ろに垂らし、紅絹をつけ、肥馬に乗っていました。轡(くつわ)を取る者みな白衣でした。4、5人が馬に乗って前を行き、左右を守る者はとても多く、長剣を持つ兵士は20人余り、傘をさす者は馬を並べて日をふせぎました。私たちはまたこれをありがたく拝見しました。その少年はひらりと馬を下り、錫のびんから酒を下さいました。私たちが飲み終わると、また馬に乗って行かれました。
周りの人は、国王が亡くなり、このあとつぎは13才と若いので、母が政治を見ていると言いました。朝鮮語を知っている日本の通訳が言うには、国王亡くなった後は女主が国をおさめている。輿に乗っていたの女主で、馬に乗った頼もしげな少年が亡き王の王子だといいます。即ち尚真王です。
この断片的な記録でも、おぼろけながらこの時代の人の生活のようすがわかると思います。
農業の技術、農具、食器、武器、着物などは文化の高さをはかる尺度になりますが、何よりも重要なことは、それらのものが沖縄で作られたものであるかどうかです。ここで紹介されている品々のうち良いものはまだ輸入品に頼っていますが、農具、食物、建築物などはすべて沖縄のものになっていました。
そしてこの時代には、学問、芸術、宗教、道徳などの精神的な文化も日本の本土や明、その他の国々から少しずつ入ってくるようになりました。