鉄道の歴史Ⅱ(戦後編)⑥ 十河総裁と無事故の誓い
昭和29(1954)年9月26日、台風15号のため、国鉄の青函連絡船「洞爺丸」が沈没し、1,000人を超える犠牲者が出ました。翌年5月11 日には、宇高連絡船「紫雲丸」が濃霧の中で貨物船と衝突し、修学旅行生ら168人が死亡しました。国鉄に対する国民の批判は激しく、長崎惣之助総裁は同年5 月、引責辞任に追い込まれました。
第4代総裁に選ばれたのは、国鉄OBで元満鉄理事、愛媛県西条市長などを歴任した十河信二でした。「鉄道博物館から引っぱり出されたオンボロ機関車」という世評に対して、70 歳の十河は、「鉄路を枕に討ち死にする覚悟」と精力的に国鉄改革に乗り出しました。
十河は桜木町事故で責任をとった島秀雄を副総裁格の技師長として国鉄に呼び戻し、飽和状態にあった東海道線の増強計画を担当させました。島は、戦前の、東京-下関間を9時間で結ぶという「弾丸列車」計画に加わったベテランのエンジニアでした。
昭和32年5月、鉄道技術研究所創立50周年記念講演会の席上、国鉄技術陣は、東京-大阪間に最高時速250km の電車を走らせ、3時間で結ぶことが可能であると発表しました。これを聞いた十河は「新幹線」計画の推進を心に決めました。
すでに8月には政府によって国鉄幹線調査会が設けられました。「鉄道はもはや斜陽である」と、反対論も強かったのですが、十河は粘り強く各方面に働きかけ、昭和33年3月、広軌(在来線の1,067mm ゲージに対して、国際標準の1,435mm ゲージを指します)による別線を敷設することが決定されました。翌年4月20日に新丹那トンネル東口で起工式が行われ、十河は自信に満ちた手で、自ら鍬入れを行いました。
着々と工事が進んでいた昭和37年5月3日、常磐線で列車の三重衝突により、死者160人を出す三河島事故が起こりました。国鉄職員のたるみが指摘されると共に、ATS(自動列車停止装置)の必要性が叫ばれるきっかけになった事故です。総裁の責任も問われましたが、十河は被害者の家を一軒一軒尋ねて頭を下げ、「事故をなくすことで責任を果たす」と心に誓ったのでした。
誰もが、十河総裁が新幹線一番列車のテープカットを行うものと信じていました。しかし、当初予算の2倍、3,800億円もの建設費がかかってしまったことが、責任問題として十河に降りかかってきました。結局政府は、任期の切れた十河を再任せず、十河は昭和38年5月に国鉄を去りました。東海道新幹線は翌年、東京オリンピックの開会にあわせて、10月1 日に開業しました。
十河の「無事故」の誓いは、安全性を世界に誇る今日の新幹線に引き継がれています。
連載第143回/平成13年3月28日掲載