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鉄道の歴史Ⅱ(戦後編)① 終戦直後の混乱と占領軍専用車

 大東亜戦争は、わが国各地に甚大な傷跡を残し、昭和20(1945)年8月15 日にようやく終戦を迎えました。鉄道施設も大きな被害を受けましたが、列車は休むことなく走り続けていました。それは、敗戦に打ちひしがれた国民にとって、平和な新しい時代への希望を表しているかのようでした。
 しかし現実には、石炭・電力の不足により、列車の運行は極めて困難な状態でした。敗戦と共に戦地からの復員軍人、外地からの引揚者、疎開地から帰る子供たち、郊外へ買い出しに行く人々などの輸送が需要を急増させましたが、国有鉄道の輸送力は、大東亜戦争前の10 分の1以下に落ち込んでいました。
 一方 、 戦災や戦時中の酷使の後遺症が残る車両、線路、枕木などのメンテナンスの不良には深刻なものがありました。敗戦直後の線路の危険個所は、国有鉄道の幹線だけで13,000ヶ所を越えていました。交換が必要であったレールは95,000tでしたが、供給されたのはわずか7,000t、1,300万丁必要であった枕木は、100万丁に過ぎませんでした。そのような状況の中で、通常では考えられないような事故が多発しました。
 終戦直後の8月24日、肥薩線真幸-吉松駅間のトンネル内で、機関車が突然停止し、客車から降りて歩き始めた乗客(多くは復員軍人でした)49人が、逆行し始めた列車にひかれて死亡するという事故が起きています。その2日後には、八高線の小宮-拝島駅間の橋梁上で買い出しの客を満載した旅客列車同士が正面衝突。9月1日には山陽本線岩田-島田駅間で脱線事故、
6日には中央本線笹子駅でも死者60名を出す脱線事故が起こっています。10 月19日には東海道本線醒ヶ井駅で貨物列車を牽引していた機関車のボイラーが爆発し、同じく東海道本線大磯-二宮駅間で死者9名を出す列車衝突事故が起こっています。
 翌昭和21年にも同様の事故が連続しました。信じられないことに、首都圏で、走行中の電車のドアが満員の乗客による圧力で外れるという事故が、2月4日、23日、6月4日と立て続けに起こっています。
 昭和15年度の運転事故は8,052 件でしたが、昭和20年度は38,563件、昭和21年度には46,578 件に増加しています。
 満身創痍の国有鉄道に対して占領軍は、日本国内に駐屯する兵士の輸送、軍人・軍属の旅行や物資の輸送などの任務を新たに課しました。占領軍関係の輸送に使われる車両は専用指定を受けました。その数は客車900両(そこにはお召し列車に用いられる御料車も含まれていました)、貨車10,000両に及び、これは当時国有鉄道が保有していた車両の1割に相当しました。占領軍関係の輸送は、当初は臨時列車で対応していましたが、昭和21年からは、定期の専用列車が、東京-九州間と上野(後に横浜)-青森間(一部の客車は青函連絡船で航送し、函館経由で札幌まで延長)に運行を開始しました。山手線などの省線電車には、連合軍専用車両が連結されました。
 列車の窓や屋根にまで乗客があふれる光景があちこちで見られる中、ボディに白線と共に "US・ARMY" と記された豪華な専用列車が悠々と失踪する姿が、戦争に負けたという厳然たる事実を、改めて国民に突きつけたのでした。

連載第138 回/平成13 年2月7日掲載

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