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スポーツ日本史① 嘉納治五郎~幻の東京オリンピックを勝ち取った講道館柔道の父


 近代柔道の創設者・嘉納治五郎。伝説の武道家であるだけはなく、黎明期の日本スポーツ界を代表する人物のひとりでした。
 嘉納は、万延元(1860)年に摂津国御影村(今の神戸市東灘区)の酒造業を営む家に生まれました。明治3(1870)年、新政府に職を得た父とともに上京した嘉納は、開成学校、東京大学に学びました。
 幼い頃虚弱体質であった嘉納は、それを克服するために柔術の修行を積んでいました。最初に天神真揚流、続いて起倒流を修めた後、両者の長所を併せて、嘉納オリジナルの「講道館柔道」を編み出したのは有名な話です。
 一方、嘉納は教育者としても大いなる功績を残しています。束京大学卒業後、学習院を皮切りに、熊本の第五高等学校、東京の第一高等学校長を経て、前後3回、26年間にわたって東京高等師範学校(後の東京文理大学、東京教育大学、現筑波大学)校長を務めました。その間、嘉納は教育課程の整備や教育陣の充実を図りました。また、陸上競技や水泳など、スポーツも奨励しています。
 明治42年、オーギュスト・ゼラール駐日フランス大使は、近代オリンピックの創設者にして、IOC(国原オリンピック委員会)会長のピエール・ド・クーベルタンからの親書を嘉納に手渡しました。そこには「アジアにおけるオリンピック運動の発展・普及のためにIOC委員に就任してほしい」とありました。嘉納はこれを受け入れ、その年のIOC総会でアジア初の委員に選ばれました。
 しかし、過去4回のオリンピックには、日本は参加していません。オリンピックを知らない人さえ多かった時代です。嘉納の仕事は文字通りゼロからの出発でした。
 翌年、次の開催国スウェーデンとIOCから、日本の参加を求める招請状が届きました。ところが、当時のわが国には、オリンピック選手を派遣する組織すらありませんでした。明治41年に行われた第4回ロンドン大会から、各国内のオリンピック委員会を通じて参加を申し込む方式になっていたので、嘉納は、スポーツが盛んだった東京帝大、早稲田大、慶応大、明治大、東京高師、一高などに呼びかけて、明治44年に大日本体育協会を設立し、自ら初代会長に就任するとともに、選手団派遣の準備に着手しました。
 スポーツ後進国であったわが国は、陸上競技の参加に絞りました。東京・羽田にあった競技場で予選会を行い、その結果、短距離の三島弥彦とマラソンの金栗四三を派遣することになりました。東京高師の学生だった金栗が出場を決めたことを、嘉納はことのほか喜んだといいます。
 時は流れて昭和13(1938)年3月、カイロで聞かれたIOC総会に参加した日本の首席代表・嘉納は、79歳の高齢をおして奮闘し、ついにライバルのヘルシンキを退け、昭和15年に行われる第12回大会を東京で開催することを勝ち取ったのです。ご存じのように、結局、この大会は返上されますが、嘉納の長年の念願がかなった瞬間でした。
 役目を終えた嘉納は、アメリカ経由で帰国の途につきましたが、バンクーバー発の客船「氷川丸」の船上で、肺炎のため永眠しました。まるで東京オリンピック開催にその生命を使い果たしたかのような最期でした。

連載第73回/平成11年9月22日掲載

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