教科書が教えない軍人伝② 山本権兵衛(1852~1933年)
高校の教科書には、海軍大将・山本権兵衛が批判的に登場しますが、その政治家としての功績、そして軍人としての功績は全く無視されています。
山本は嘉永5(1852)年、薩摩藩士の息子として生まれました。文久3 (1863)年、薩英戦争が起こったとき、山本は若干11歳ながらこの戦に加わっていました。その後年齢をごまかして藩兵となった山本は、戊辰戦争に従軍した後、海軍操練所(後の海軍兵学校)に学びました。
その頃山本は、勝海舟の家に1ヶ月ほど居候したことがあります。幕臣として長崎に留学していた経験のある勝でしたが、その目は世界情勢をしっかりと見すえていました。勝は若き士官候補生の山本に「日本海軍の師匠はオランダではなく英国である」と断言していました。そして、「海軍とは、最先端技術の結晶であり、その役割は通商保護(今で言うところの、シーレ
ーン防衛)と抑止力である」と教えたのです。
勝の薫陶を胸に、山本は明治10年に海軍少尉に任官されて史観としての道を歩み始め、明治24年には海軍省官房主事とという要職に就きました。軍令部が独立していなかった当時、主事は大臣を補佐して、統帥部門の調整をも行う重要な役割でした。大臣の西郷従道は、兄の隆盛同様、泰然自若とした人物で、しかも陸軍の出身。事務は一手に山本が引き受けていました。
西郷の下で山本は、海軍の組織改革に手腕を発揮しました。幕末維新当時の功績から海軍将校となった、正規の海軍教育を受けていない者を一挙に97名もリストラしたのです。その人選には私心がなく、山本と懇意の軍人も容赦なく予備役に編入されました。さすがの西郷海相も心配しましたが、山本は教育を受けた将校たちを信頼して、第一線に配備したのです。
明治28年、朝鮮の独立を巡って、日清の対立はピークに達しました。開戦を前にして伊藤博文首相は、関係閣僚や山県有朋樞密院議長を召集して、陸海軍の責任者に軍備や作戦などの計画を開陳させる機会を持ちました。陸軍からは川上操六中将が、海軍からは大佐であった山本が出席しました。席上山本は、海軍があたかも陸軍の輸送手段のように考えられていることを批判し、「清国という海軍国を相手に戦をする上で大切なのは、海上権の確保である」と主張しました。海上権とは、今の言葉でいう制海権です。的を射た指摘に、そうそうたる面々も感服し、山本が主張する計画に同意しました。
日露戦争における日本海海戦での東郷平八郎らの活躍はすでに語り尽くされている観がありますが、東郷の資質を見抜いて、閑職から連合艦隊司令長官に抜擢したのは、海軍大臣となっていた山本でした。
このように、近代日本を方向付けた2つの戦争における山本の功績は、非常に大きいものがありました。
その後、山本は海軍の長老として2度も首相の印綬を帯びました。大正12(1923)年9月1日、第2次山本内閣の親任式が行われる予定だったその日、関東大震災が発生しました。普通選挙を実施するつもりだった山本で
したが、復興の為の仕事に忙殺され、結局果たせませんでした。そして普通選挙実施の功績は政党政治家に譲ることになったのでした。
連載第64回/平成11年7月14日掲載
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