スポーツ日本史⑥ 幻の東京オリンピックとその前後の大会
前畑秀子が200m平泳ぎで日本人女性初の金メダルを獲得した第11回オリンピック・ベルリン大会。ラジオで中継した河西省三アナウンサーの「前畑ガンバレ!」の連呼に、国民が手に汗を握っていたこの大会の裏で、もうひとつの興奮が国内を包んでいました。
開会式前日の昭和11(1936)年7月31日、国際オリンピック委員会(IOC)で、第12回大会を東京で行うことが決まっていたからでした。
オリンピック招致活動は、昭和4年から非公式に始まっていました。そして昭和6年には東京市議会が招致立候補を正式に決定しました。
第12回大会の候補地は、東京以外に、ローヌ、バルセロナ、ブダペスト、ヘルシンキ、リオデジャネイロなど9都市もありました。最大のライバルと目されたのは、充実した競技場をもつローマでした。
これに対して、嘉納治五郎、副島道正、杉村陽太郎らのIOC委員は、当時イタリアの首相であったベニト・ムソリーニに「第12回大会が行われる1940年は皇紀2600年にあたるので、その記念行事にしたい」と直談判し、快く辞退してもらうことに成功しました。また、立候補締め切り間際にロンドンが名乗りを上げましたが、「非スポーツマン的だ」と列国から非難され、自主的に取り下げました。
最後に残ったのは、東京とヘルシンキ(フィンランド)。決選投票の結果は、36対27で東京に凱歌が上かりました。オリンピックの父と呼ばれたピエール・ド・クーベルタンからも祝福のメッセージが届き、国内は祝賀ムードに包まれました。組織委員長には、徳川家達が就任しました。
しかしその喜びもつかの聞、昭和12年7月7日に中国共産党の工作員が起こした蘆溝橋事件をきっかけに、わが国と中国国民政府との間に戦端が聞かれました。当初は政府も陸軍も不拡大方針でしたが、中国側の停戦協定違反や通州事件、蒋介石による意図的な上海への戦線拡大により、北支事変、支那事変となった戦いは、いつ終わるとも知れない状態になりました。
8月25日に陸軍省は、第10回ロサンゼルス大会で金メダルを獲得した西竹一ら馬術代表選手の不参加を発表しました。これを見た立憲政友会の河野一郎は9月6日の予算委員会で、「政府は『精神総動員』だというが、軍人が馬術の練習をやめるなら、国民はみんなやめなければならないのではないか」と主張しました(河野次男が洋平です。中韓に阿ってい国を誤ったこととオーバーラップします)。この頃の政党政治家の軍への迎合は、事実上自ら政党政治を葬るものでした。
その後、近衛文麿内閣は次第に戦争優先の政策を採り始め、ついに昭和13年7月15日、東京オリンピックの返上を決定したのでした。
これに対してIOCは、第12回大会をヘルシンキで開催することを決定したのですが、昭和14年11月、ソ連がフィンランドヘの侵略を開始し、結局、ヘルシンキ大会は中止となりました。日本、フィンランド共に、ソ連の侵略を受けたというのも皮肉なことです。
そしてロンドンで行われることが決まった第13回大会も、第2次世界大戦のために中止になりました。
戦争が終わって最初に聞かれたオリンピックは、昭和23年の第14回ロンドン大会でした。この大会は各国からのたくさんの物資の援助によって行われ、「友情のオリンピック」と呼ばれました。敗戦国でもイタリアは、戦争終結前に降伏したということで参加を許されました、わが国は国家が消滅したドイツとともに戦争責任を問われ、参加を許されませんでした。
それは、もはやオリンピックが単なるスポーツの祭典ではなく、国際政治の強い影響の下に置かれるようになったことを示しています。
連載第78回/平成11 年10月27日掲載
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