見出し画像

外交家列伝⑩ 椎名悦三郎(1898~1979年)

 日本の朝鮮半島統治は、昭和20(1945)年9月9日に、朝鮮総督阿部信行陸軍大将と朝鮮軍区司令官上月良夫陸軍中将が降伏文書に署名することでピリオドが打たれました。
 間もなく北部にはソ連軍の将校であった金英柱は金日成を名乗って首相となり、傀儡政権である朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を作り、南部には反日独立運動家だった李承晩が大統領となって大韓民国が成立ました。しかしわが国と両国との国交はありませんでした。冷戦真っ直中で北朝鮮と安易に国交を結べなかったのは当然ですが、反日の姿勢を崩さない李承晩政権との間にも度々話し合いはもたれたのですが、なかなか国交樹立には至りませんでした。その不自然な状態を打開したのが椎名悦三郎でした。
 椎名は明治31(1898)年に岩手県水沢市に生まれました。東京帝国大学卒業後官吏となり、商工次官などを経て、昭和30 年に政界に入りました。そして昭和39 年に、第3次池田勇人(改造)内閣の外相に就任しました。
 当時日韓関係は一時の停滞から急速に進展していました。というのも、昭和36 年に朴正熙少将によるクーデターが成功し、彼が第3代目の大統領に就任していたからです。朴大統領は、朝鮮戦争以後疲弊していた韓国経済を立て直すことを第一と考えていました。懸案の日韓国交樹立を果たし、日本側からの賠償と援助を土台にして、韓国経済を活性化させようとしていたのです。
 既に大平正芳前外相と金鐘泌中央情報部(KCIA)部長との間に、請求権問題について合意が成立していました。椎名が池田に請われて外相になったとき、不自然な日韓関係が正常化に向かってゆっくりと確実に進み始めていたときだったのです。
 しかし、日韓両国では、国交正常化反対運動も起こっていました。我が国では左翼が、アメリカ・南ベトナム・韓国と共に、反共陣営に我が国が明確に位置づけられるとヒステリックに反応し、また韓国では、李承晩の置き土産である反日感情に火がついて争乱状態に陥りました。朴大統領は内閣を更迭し、新首相に前内閣の外相(外務部長官)丁一権を総理に任命し、外相には若干38歳の李東元を任命しました。困難な日韓条約妥結が彼の使命でしたが、彼は「李完用(日韓併合時の総理)になる決意」で、大統領の要請に即座に応じたのでした。
 昭和42年、第1次佐藤栄作内閣に留任した椎名は、韓国に公式訪問しました。彼を迎えるソウルの金浦空港では、戦後初めて、日本国旗「日の丸」が翻っていました。空港で椎名は「両国の長い歴史の中に、不幸な期間があったことは、まことに遺憾な次第でありまして、深く反省するものであります」という謝罪を含んだ声明文を読み上げたのです。この一言で韓国民の心が動いたといわれています。
 それから間もなく、昭和43年12月に、椎名や李東元らの努力が実り、ついに日韓関係は正常化しました。
 安易な謝罪外交を繰り返してきた我が国の政府と外務当局者、そしてそれを要求する韓国の政治家やマスコミは、先人の努力と決断による歴史的偉業を踏みにじっているのだということに早く気がつくべきです。

連載第31 回/平成10 年11 月17 日掲載

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?