見出し画像

スポーツ日本史② テニスの黄金時代~ウインブルドンで大活躍した戦前の日本人

 明治11(1878)年に文部省が設置した体育伝習所で、アメリカ人ジョージ・アダムス・リーランドが、わが国に初めてテニスを紹介しました。今日のようなテニスが考案されたのは1873年のことです。第1回ウィンブルドン大会(全英選手権)開催が1877年なので、比較的早く導入されたスポーツだと言えるでしょう。
 草創期の日本のテニスは軟式が中心で、大学の体育実技の授業で取り入れられて普及しました。硬式テニスは、在日外国人が神戸や横浜、軽井沢などの避暑地で楽しんでいるだけでした。  、
 大正2(1913)年に、慶応大学が軟式から硬式に転向します。これは、英国留学中にウィンブルドン大会を見学した小泉信三(後に慶応義塾塾長)が、世界で主流となっていた硬式の採用を進言したことによるものです。それ以後、日本でも硬式が中心となります。
 元来スポーツは、組織ができあがって、その後に国際試合ヘチャレンジするという経過をたどるものですが、テニスの場合はまったく違っていました。選手の国際試合での活躍が、組織結成よりも先でした。
 三菱銀行(現在の三菱UFJ銀行)ニューヨーク支店に勤務していた熊谷一彌が大正6年、第3回極東オリンピックで、シングルス・ダブルスともに制覇し、その後ニューヨーク選手権で3連覇を飾るという華々しい国際デビューを果たしました。さらに熊谷は大正9年の第7回オリンピック・アントワープ大会において、シングルスで銀、ダブルスでも柏尾誠一郎(三井物産)と組んで銀メダルに輝きました。これは、日本選手のオリンピックでの最初のメダル獲得でした。日本庭球協会が正式に発足したのは、その2年後のことです。
 熊谷がメダルを手にしたその年、清水善三(三井物産)がインドのベンガル選手権で優勝し、ウィンプルドンではオールカマーズ決勝戦へ進出しています。大正10年には、世界ランキング第4位となった清水と熊谷のペアが初めてデビスカップに出場しました。フィリピン、ベルギー、インド、オーストラリアを破ってインターゾーンを勝ち抜き、チャレンジラウンドで前年優勝のアメリカと対決したのですが、惜しくも敗れました。大正15年にはチャレンジラウンド進出一歩前まで駒を進めた原田武一(慶大)が世界第7位にランクされました。
 昭和7(1932)年からの3年間は、ウィンブルドンで日本人選手が大きな喝采を浴び続けました。特に、佐藤次郎(早稲田大)は2年連続でシングルスの準決勝に進み、昭和8年にはダブルスでも決勝進出し、世界第3位にランクされました。
 ところが、翌昭和9年、ウィンブルドンヘの遠征途上、プレッシャーの中で佐藤は自殺してしまいます。しかしこの大会では、佐藤の死という悲劇を乗り越えて、三木龍喜(安宅産渠)が混合ダプルスで優勝し、日本人として初めてウィンブルドンのチャンピオンとなっています。
 戦後は、昭和34年の皇太子殿下(現上皇陛下)御成婚の頃に、お二人の出会いがテニスであったことからブームが起こり、競技人口が急増しました。そして今日、錦織圭選手、大坂なおみ選手ら、日本のプロ選手が世界でも活躍しています。令和の時代、再びテニスの黄金時代が来ることを期待したいものです。

連載第74回/平成11 年9月29日掲載

いいなと思ったら応援しよう!