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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第12章 王朝後期の文化⑤

2.教育と官吏養成

【解説】
 琉球の教育制度は、日本史を教えてきた筆者も初めて学んだ。知識がないので、内容については順番を整理しただけである。
 琉球では明治までは庶民の教育については、ほとんど普及していなかったというのが事実のようだ。本土では江戸時代に寺子屋が普及し、世界最高水準の識字率を誇っていたこととは対照的だ。仲原もその点には触れていない。識字率が高いことで、技術や技能の伝達も容易になる。琉球王国がせめて、薩摩の侵攻を受けた後からでも、庶民への教育に目を向けておればよかったのだが、実際には、蔡温時代に農奴化が強化され、人口の大半を占める農民の識字率が向上することはなかった。
 また、官吏登用に科挙を採用したのは愚行であった。上層部は自ずと古典と文字に拘泥していき、実学を軽んずるようになる。江戸幕府でも、もちろん官学であった朱子学が重んぜられたし、儒学は学問の基礎であったが、その頃には実学も盛んになり、蘭学研究も進んだ。そして何よりも、身分の流動性があったことが、社会にダイナミズムを生み出していったのだ。

【本文】
 薩摩がやって来た4年後の1613年以後、1703年頃までの記録を見ると、各間切から首里に提出した様々な報告書は、平仮名まじりで、優れた文章も少くありません。これを書いたのは村役人で、地方の有力者の子弟でした。
 彼らは年長者から読み、書き、そろばんを習い、その後は首里の地頭の所に行って数年間、雑用係のようなことをしながら勉強をして、田舎に戻りました。地頭の所にはこのような書生が数十人もいたと言われています。彼らは村役人になるだけでなく、メディアがなかった当時は、首里のことばや風俗、習慣、芸能などの文化を地方に伝える伝える役割も果たしました。
 羽地朝秀は首里の士族の子弟にも、学問、算勘(算術、そろばん)、書き方を学ぶことを奨励しています。この学問というのは、日本、支那の学問を意味しました。日本語の文は手紙文を主とする実用の文章として、漢文は漢学の初歩として学びました。
 尚温王の1798年、首里に国学、平等学校を作り、首里、泊、那覇には村学校、農村には筆算稽古所(会所)を置いて学校教育をはじめました。学校設置の目的は官吏養成を主としていました。国学では漢学を主としましたが、他の学校では漢学の初歩と習字、作文、算術が主な学科でした。しかし、国民の大半を占めていた農民の子弟が教育を受ける機会はほとんどなく。識字率は著しく低い状態が続きました。
 それ以前から久米村には明倫堂があり、1718年以来、孔子廟の境内でレベルの高い漢学と漢語を教えていました。
 清への留学生(官生)は、尚真王から尚永王までの約100年間に23人送られましたが、それは全て久米村に帰化した漢人の子孫ばかりでした。尚温王の1802年から留学生の半数を首里から出すことになりました。その中には医学生など、技術を学ぶために派遣された者も含まれていますす。
 役人の採用については、1760年に、大陸の科挙に倣って試験制度をとったのは以前に書いた通りです。この試験を「科」(こう)と言います。首里政府では評定所筆者(中央政府の事務官)、那覇は那覇役所の筆者を試験で採用しました。年齢制限は39歳で、毎年何度でも受験できました。評定所筆者の場合、数人の採用に対して5~600人の受験生がおり、大陸同様、毎年試験を受けて落ち続け、一生をこのために費やした人も多くいました。その他、(文字を巧みに書く役目)、絵師などにも試験制度が行われました。

【原文】
二、学芸の進歩
 学問はどのていどに行きわたりどんな人々が学んだか、首里や那覇のことを考えるよりも地方のことを考えるのが、この問題の答えになりましょう。
 一六一三年(島津進入の四年あと)から一七〇三年ごろまで各間切から首里に出したいろいろの報告書は平仮名まじりの文章で中にはすぐれた文章も少くありません。これをかいた村役人になる人々は、地方の有力者の子弟で、年長の人から読み書きそろばんを習い(一八〇〇年ころからは筆算けいこ所)、それから首里の地頭の所に行って二三年小使いのようなことをしながら勉強してかえる。地頭の所には二三十人がら四五十人もこれがいたといわれます。これらの青少年が首里のことばや風俗習慣芸能などを地方につたえる文化伝達という、今日の書物・新聞雑誌とおなじ役目をはたしたのです。
 羽地摂政は首里の士族の子弟にも学問、算勘(算術・そろばん)書き方を学ぶことをすゝめていますが、この学問というのは日本・中国の学問を意味し、日本文は手紙文を主とする実用の文章、申国文は漢学の初歩であります。
 尚温王の時(一七九八)に首里に国学・平等学校をつくり首里・泊・那覇に村学校、農村には筆算けいこ所をおき学校教育をはじめました。
 それらの学校の目的はすべて官吏養成を主とし国学は漢学を主とするが、他は漢学の初歩と習字・作文・算術のけいこがおもなる学科です。
 久米村には明倫堂があり、漢学・中国語をおしえていました。
 中国への留学生(官生という)は尚真王から尚永王まで約百年のあいだに二十三人、それらはすべて久米村の青年であったのを尚温王のときから(一八〇二)半分を首里から出すことになり、その中には医学生など技術の修業者もふくまれています。
 役人の採用について試験制度をとったのは前に話したとおり一七六〇年からあとのことで、首里政府では評定所筆者(中央政府の事務官)那覇は那覇役所の筆者を試験しました。年齢は三十九才まで毎年受験できます。前者は一回五六百人から四五人をとるので三十九才まで毎年試験をうけ一生をこのためについやした人も出来てきました。右の外、祐筆(字を巧にかく役)絵画その他のものにも試験制度が行われました。

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