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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第4章 按司の時代(2)①

第4章 三山時代
1.王朝の伝説と英祖王

【解説】
 三山の王の話、朝貢貿易の話になったかと思えば、突然伝説の王朝の話になる。この個所は交通整理に苦労した。
 三山の王と貿易の話は、別の項で詳述されるので、ここで紹介するのは適当ではないと思い割愛した。原文中の太字で示した部分である。本書は歴史の本ではあるが、前後の重複が多く、それを整理することは、本書を教室に戻すためには重要な作業になると思われる。そのままの順序、展開では、生徒が混乱すると思われるからだ。
 一方、後半部分は、説明が非常に分かりにくく、解読に苦労した。1か所、「いいず」という語の意味が分からない。文脈からは「世の主」のことのようでもが、今度は文意が通らない。やむを得ずそのまま示しておいた。本文中の太字部分である。是非、読者から正しい意味をご教示いただきたい。
 確かに本書は、内容が沖教祖の好みでないということもあるだろうが、読本として非常に使いにくいということも、この本が使われなくなった理由のひとつかもしれない。よい編集者がいなかったのだろうか。ちゃんと校正をされた跡が見当たらない。非常に残念だ。
 このプロジェクトでは、原文を順序良く紹介することを意識していきたい。ために、整理した個所全体を紹介しなければならなかったので、今回は少し長くなってしまった。

【本文】
 さて、沖縄で最初に王になったのは誰でしょうか。
 まずは伝説をひもといてみましょう。

 昔、アマミキヨという神が天から降りて来て島をつくりました。その後神の子供(男女)が降りて来てこの島に住むようになりました。
 この部分は沖縄に古くから伝わる物語ですが、本土の有名な神話とほとんど同じです。これは古代に沖縄に移住した私たちの先祖、すなわち日本から来た人々が伝えたものだと思われます。またそれを土台に、奄美大島を経由して米作を伝えた人々を神格化して言い伝えたものかもしれません。いずれにしても、もとは同じものだったと思われます。
 さて、神の子は3男2女をうみ、長男が王となって子孫が後を継ぎ、25代、17,802年続いたと言います。これが天孫氏で、その次に源為朝の子(尊敦、そんとん)が舜天王となったと伝えられています。
 舜天も尊敦も「しゅいてん」、即ち「首里天」のあて字です。どちらも首里の王を意味するのですが、首里が王城となったのは、統一王朝を作った尚巴志王から後の15世紀半のことですから、伝説の王が首里の王になったとは考えられません。このように、神の子孫が王になったという部分から後は、15世紀後半以降、琉球王国ができてから整理されたものだと考えられています。

 伝説はさておき、琉球王朝につながる、最古の「王」は誰でしょうか。琉球王国の正史である羽地朝秀の『中山世鑑(せいかん)』(1650年)によると、それは英祖(えそ)王(1229~1299)です。その子孫は沖縄各地で按司となりましたが、英祖王は全島の王ではなかったと思われます。
 13世紀の初め、日本では鎌倉幕府ができたころですが、浦添村の伊祖に「えそにや」という按司がいました。「えそのてだ(太陽)」とも呼ばれました。「てだ」とうたわれた按司は外にもたくさんいますが、この人の孫が英祖王で、若い頃は「えそのいくさもい(戦上手)」と称えられました。
 伊祖の北に牧港があり、南西諸島の島々をはじめとし、日本の船も出入して物々交換の中心地となり、そこの支配者となった「えそにや」は石の城を作ってそこに住みました。
 後世の人は彼を英祖王、彼の祖父を「恵祖の世の主」といいましたが、恵祖も英祖も「いいず」(「えそ」も同じです)のあて字です〔編註:「いいず」意味不明。「世の主」か〕。この人たちは按司の中でもっとも名高かった人で、奄美大島や久米島の按司たちも貢物をもってご機嫌を伺いに来たと伝えられます。
 13世紀後半に、本土から禅鑑という僧が渡って来て、浦添の城の西に、極楽寺という寺を建てました。沖縄に仏教の寺院が建立されたのはこれが初めてのことです。その寺のそばに、英祖は大きな墓をつくりました。王朝時代にこれが整備されて「浦添ようどれ」として今に伝わっています。
 大東亜戦争の後、その墓の中をしらべて見ると大きな石造の棺があり、棺の外側にはりっぱな仏像の彫刻があることが明らかにされました。
 英祖王が亡くなったあと、同じ浦添の謝名(じゃな)からおこった察度(さつと)という按司が名高くなり、この地方の支配者になりました。

【原文】
 第四章 按司の時代(二)
一、三山の王 
 各地の按司たちは、はげしい競争ののち十四世紀の中ごろには三人の大按司の下に中小の按司がしたがうというふうになり、それから約百年のあいだは三人の按司の家の競争になります。
 三人の大按司は中国・朝鮮・日本とも交通し、ことにその時代東洋一の大国であり文化もすゝんでいる中国との交通はひんぱんです。あとで話しますが浦添按司がまっさきに中国(明)の皇帝のすゝめで使を出したので、皇帝はよろこんで中山王という名をあたえ、つゞいて大里按司は南山王、今帰仁按司は北山王というようになります。
 王は皇帝よりも下の位ですから、向うでは中国の徳をしたって臣下となってとおい所からはるばる貢物をもって来たと考え、その返礼としてりっぱな品物をたんと下賜する、ということになります。
又船につんで行った貿易品も向うの政府で高く買いあげてくれる、向うで買った品物をもってくると又大へん高くうれるのでえらい利益になります。
 臣下と称して来るのでなければ、向うでは船をよせつけない、つまり臣下と称することを条件として貿易の大利益をおさめているわけです。(第九章を見よ)

 沖繩での彼らの称号は按司、又は「世の主」です。
 われわれは中山王の話からはじめますが、その前に次のような伝説をぎんみして見ましょう。
     昔アマミキヨという神が天からおりて来て島をつくった。そして
    神の子供(男女)がおりて来てこの島にすんだ。そして三男二女を
    うみ、長男は王になり廿五代一万七千八百二年つゞいた。これを天
    孫氏というた。その次に為朝の子(尊敦)が王になり舜天王となっ
    たという伝説です。この伝説の後半、即ち長男が王になったという
    ことは王国が出来てからのものです(十五世紀半ごろからあと)。
     アマミキヨの伝説の前半は古くからあるが、これはある時代に沖
    繩に移住した民族の伝 説を中心として枝葉をつけたものであろ
    う。おそらく米作を大島からこの島につたえた人人のことをいいつ
    たえた伝説かも知れません。舜天(しゅんてん)も尊敦(そんと
    ん)もしゅいてん、即ち首里天のあて字で首里の王を意味するが、
    首里が王城となったのは尚巴志王からのち十五世紀半のことですか
    ら、その伝説をそのまゝ今の首里の王になったとは考えられませ
    ん。
 右の話とちがって、ぼんやりした伝説のもやの中からはっきりとその姿をあらわすのが英祖(えそ)という人です。しかしこの人も沖繩全島の王ではなかったでしょう。数百年後の人(羽地朝秀の中山世鑑(せいかん)(一六  五〇)という歴史の本)が王と書いたのがはじめてです。
 十三世紀のはじめ(かまくら募府がはじまったころ)浦添村の伊祖に「えそにや」という按司がいました。えそのてだ(太陽)ともうたわれています。「てだ」とうたわれた按司は外にもたくさんいます。
 彼れ(ママ)の孫が「えそのいくさもい」といわれる人です。
 伊祖の北に牧港があり、沖繩・大島の島々をはじめとし日本の船も出入し物資交換の中心地となり、そこの支配者となった「えそにや」は石城をつくってその中にすみ、「えそのいくさもい」の時には日本から禅鑑という僧もわたって来て極楽寺という寺をたてました。仏教の寺がたったのはこれがはじめです。
 お寺のそばに彼は大きな墓をつくりました。後世の人は彼を英祖王、彼の祖父を「恵祖の世の主」といいますが、恵祖も英祖もいいず(えそもおなじ)のあて字です。この人たちは按司の中でもっとも名高かった人で、大島とか久米島の按司たちも貢物をもってあいさつに来たと伝えられます。
 今度の戦争ののち、墓の中をしらべて見ると大きな石造の棺があり、棺の外側にはりっぱな仏像のちょうこくがあることがあきらかにされました。この人の子孫の時代におなじ浦添の謝名(じゃな)からおこった察度(さつと)という按司が名高くなり、この地方の支配者になりました。



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