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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第9章 島津の進入と大島・沖繩②

2.島津の琉球征服

【本文】
 仲原の、被害者史観ではない、平等で冷静な筆致が光る。もう少し詳しくてもよいとは思うが、あくまでも郷土史の副読本なので、それを求めるのは難しいだろう。後日加筆する際に、もう少し調べて色を付けたい。
 国防の意識が欠如している国家が、他国に征服されるという至極単純で明快な歴史を持つのに、今日の沖縄県民がその二の轍を踏もうとしているのかが理解できない。この時に強固な軍隊を持って居れば、薩摩の言いなりになることもなかっただろうし、形式的な朝貢を続けても、近代に入るまでは生き延びることが可能だったかもしれない。
 平和ボケはいつの時代も亡国の思想であることを、島津の征服は教えてくれている。
 目を覚ませ、沖縄県民。左翼の口車に乗ってはいけない。

【本文】
 薩摩藩主島津家久は徳川家康の許しを得て、豊臣秀吉の時からたびたび問題を起こしていた琉球との関係を整理するために兵を送ることを決めました。
 1609年3月、兵3000が100隻の船に分乗して山川港を出発、奄美大島、徳之島、永良部島などを攻め下しました。奄美大島、徳之島では激しい戦闘があり、双方とも多くの死傷者を出しています。舟は27日に運天港につきました。尚寧王は驚いて使を送り和を乞いましたが許されず、薩摩軍は兵を進めて読谷の大湾につきました。那覇港には鉄の鎖を張って舟の入るのを防ごうとしましたが何の役にも立ちませんでした。
 島津の兵隊は鉄砲を持ち、意気も盛んです。一軍は大湾から上陸して首里に進み、舟は那覇に入って来ました。
 首里の政府の中にも、謝名利山の方針に反対の人も多かったので、足並みは揃いませんでした。しかも、統一王朝ができてからは長らく戦の経験もなく、ただ驚き、騒ぎ、右往左往するだけです。
 いよいよ薩摩軍が首里に迫り、100人の近衛兵が守っていた平良橋で両軍が衝突しました。薩摩側からバラバラととんで来た銃弾でひとりが撃たれて倒れると、琉球側は蜘蛛の子を散らすように逃げてしまいました。4月2日に那覇で講和談判が行われて琉球は降伏し、4日に城をあけわたしました。尚寧王は捕虜となり百余人の家来とともに鹿児島に連行されました。その後更に江戸に上り、将軍徳川秀忠に謁見しています。尚寧は鹿児島に帰った後、今後は薩摩で定めた法令を守り、絶対に背きませんという誓文「琉球国中山王尚寧起請文」に署名捺印し、1616年3月にようやく沖縄に帰って来ました。謝名は起請文の提出を拒否したので、首をはねられました。
 島津は3年間で琉球が支配していた全ての土地を測量した上で生産高を計算し、次のように決定しました。
 1、大島五島(奄美大島、徳之島、与論島、喜界島、永良部島)を割譲し、島津の直轄領とすること。
 2、琉球の石高(田畑の生産高)は9万石(後に9万8千石)とし、その中から租税をとること。また、芭蕉布、上布下布、計1万9千反、牛皮200枚、むしろ3800枚、その他の上納をすること。
 この課税が実行できなかったので、米や砂糖に代ったり、変更もありましたが、大体米8600石にあたるもので、生産高の1割弱ですが、琉球政府の租税収入の約2割にあたりました。
 新国王が即位する時、摂政、三司官という高官が就任する時には島津の許可が必要になるなど、15か条の命令も守らねばならなくなりました。
 また島津は、那覇に在番奉行以下の役人を置いて政治を監督し、琉球も鹿児島に役人を置いて連絡をとらせました。
 こうして琉球は、外交、宗教、租税も含め、政治・経済の全般にわたって島津の指導と監督を受けるようになりました。

【原文】
二、島津軍の進入 
 薩摩藩主島津家久は幕府のゆるしを受け、兵を送ることに決し秀吉の時からたびたび問題になったことを解決することになります。一六〇九年三月兵三千、舟百隻、山川の港を出発、大島・徳之島・永良部などを攻め下しました。大島・徳之島でははげしくたゝかい両方とも多くの死傷者を出しています。舟は廿七日に運天港につきました。王はおどろいて使をやり和を乞うたがゆるされず、進んで読谷の大湾につきました。那覇の港には鉄のくさりを張って舟の入るのをふせごうとしたが何の役にも立ちません。
 島津の兵隊は鉄砲をもち、いきり立った現役兵です。一軍は大湾から上陸して首里にすゝみ舟は那覇に入って来ました。
 首里政府の中にも謝名のやり方には反対の人も多いから足なみはぞろいません。しかもいくさの経験は全くないからたゞおどろきさわぐだけです。
 いよいよ敵が首里までせまって来て、百人の王軍が守っていた平良橋で両軍行きあいます。さつまがわからバラバラととんで来た鉄砲で一人がうたれて死んだので、みなにげ帰ってしまいます。四月二日に那覇でだんぱんが行われて沖繩がわは降伏、四月四日、城をあけわたしました。王はほりょとなり百余人の家来とともに鹿児島につれゆかれ、更に江戸に上り将軍に面会、鹿児島にかえり今後は薩摩で定めた法令を守り、いささかもそむきませんという誓文に印をおし十六年三月三年目にかえって来ました。
 謝名はさすがにこの誓文に印をおすのをことわり首をはねられました。
 島津は三年間に全部の土地を測量しその生産高を計算し、次のように決定しました。
 一、大島五島(大島・徳之島・輿論・喜界・永良部)は島津の領地とすること。
 二、琉球の石高(田畑の生産高)は九万石ときめ(後に九万八千石)それの中から租税をとること。
 島津へは芭蕉布、上布下布(計一万九千反)牛皮(二百枚)むしろ(三千八百枚)その他の上納をすること。
 この税はとても実行出来そうにないので米(後には砂糖)に代ったりいろいろと動いているが、大体米八千六百石にあたるもので、生産高の約一割弱ですが、租税収入の二割にあたります。
 新国王が立つ時及び摂政・三司官の重役は島津のゆるしを受け外に十五ケ条の政治上の命令があるがこれはあとで話します(第十章)。
 島津は那覇に在番奉行以下の役人をおき政治のかんとくをなし、沖繩も鹿児島に役人をおいて連絡をとらせました。
 即ち王及び重臣の任命、外交、経済、宗教、租税等政治・経済の全ぱんにわたって島津のさしずを受けるようになりました。


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