戦前政党政治の功罪④ 「権力 対 民衆」ではなく、政界の権力闘争だった第二次護憲運動
大正13(1924)年の元日、「枢密院議長・清浦奎吾に大命降下」というニュースが伝わった時、各政党では失望と驚きが錯綜しました。「今度こそ政党内閣」という期待が裏切られたこともさることながら、よりによって政党嫌いだった山県有朋直系の内務官僚出身で、75歳という高齢の清浦の登場には意外の観がありました。
当時、次期首相を天皇に推挙する元老は、松方正義と西園寺公望の2人だけ。彼らは関東大震災からの復興と皇太子ご成婚を目前に控えた重要な時期に、議会内での政党対立は避けたいと考え、あえて政党の党首を推薦しなかったようです。もちろん、政党側の人材不足も否めませんでした。
清浦は、できれば政党の協力を得て、挙国一致で政冶に取り組みたいと思ったのですが、組閣段階で各党の拒絶にあいます。それではとばかりに、自らが影響力を持つ貴族院に「与党」を求め、陸・海・外相以外のすべての閣僚ポストに貴族院議員をあてるという、「時代錯誤」な組閣人事を行い、政党と全面対決する構えを見せました。
清浦内閣の前の2つの内閣(加藤友三郎、第2次山本権兵衛)は、軍人内閣でした。しかし、与党をバックに政治運営をしていたので「超然内閣」とは言えません。それは、第1次護憲運動で第3次桂太郎内閣が倒れて以降、すべての内閣にいえることで、政党内閣ではなくても、政党の協力を得て政治を行っていました。当時の政党人の目には、清浦内閣は、「久々に登場した本格的な超然内閣」に見えました。立憲政友会(政友会、高橋是清総裁)、憲政会(加藤高明総裁)、革新倶楽部(犬養毅総裁)の3党は、政策面の対立はありましたが、清浦内閣の出現に危機感を覚え、反山県派だった枢密顧問官・三浦梧楼のあっせんで党首会談を行って団結しました。彼らは護憲三派を名乗って、「清浦特権内閣」の打倒と政党内閣の復活を訴え、第2次護憲運動を展開しました。
そして、いよいよ帝国議会での論戦の火ぶたが切って落とされると思われた休会明けの1月31日、解散の詔書が下りました。
同日、清浦が発表した解散理由書には、愚痴にも似た清浦の政党批判が述べられています。「寺内正毅内閣も加藤友三郎内閣も政党に基礎を置いていなかったが、それを支援する政党があったではないか。なぜ我が内閣だけを批判するのか」。確かに、清浦の論には一理あります。しかし、清浦内閣がそれらの内閣と違うのは、第3次桂内閣が批判されたのと同様、「宮中と府中の区別を紊した」からにほかならないのです。
枢密院議長という宮中に近い職にあった者が、皇太子ご成婚を口実に組閣している、ということが、内大臣から首相となり、詔勅を乱発した桂の手法にだぶって見えたわけです。
解散前に政友会の反主流派(反高橋派)が脱党して結成した政友本党が一躍衆議院第1党となりましたが、総選挙の結果は、憲政会の圧勝でした。そして護憲三派が絶対多数を確保したので、清浦は皇太子ご成婚を見届けて内閣を総辞職しました。
教科書では、護憲運動は「権力対民衆」という陳腐な構図で示されることが常ですが、実際には作者の願いで史実が歪められていることが多いです。第1次護憲運動もそうですが、第2次護憲運動は、大衆運動となることを政党が避け、政党主導で展開されていました。つまり、第2次護憲運動は、明らかに議会政治における権力闘争だったということです。政党政治家は、これに勝利し、「憲政の常道」を確立しましたが、実はこの総選挙のあと戦前は、選挙による政権交代が一度もないという皮肉な結果が、普通選挙を手にした「民衆」には待ち受けていたのです。
連載第132回/平成12年12月13日掲載
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