日本人の大発見① 養殖真珠を日本の特産品にした「真珠王」・御木本幸吉
今日、多くの観光客で賑わう三重県鳥羽市も、かつては小さな漁村でした。
明治8(1875)年のある日、この静かな港に停泊していたイギリスの測量船シルバー号の甲板から、船員の喝采が巻き起こりました。さっきまで小舟に乗ってシルバー号に近づき、卵を売ろうとしていた少年が突然、狭い小舟の中にあおむけに寝そべると、足を使って器用に桶をまわし始めたのです。少年はシルバー号に招き入れられ、商売に成功しました。この少年こそ、後に「真珠王」と呼ばれる御木本幸吉です。
幸吉は、安政5(1558)年に、うどん屋の長男として生まれました。足芸披露から数年後、東京、横浜を見物した幸吉は、干しアワビや天然真珠といった志摩の特産品が、外国人に高値で買い取られていることを知りました。幸吉は帰郷後、海産物商として独立し、30歳の時に真珠商人となりました。
すでに、志摩の英虞湾では、小川小太郎、柳楢悦が真珠貝の養殖を行っており、幸吉は彼らと知己になりました。間もなく小川が亡くなると、幸吉はその事業を受け継ぎ、明治23年には柳から動物学者・箕作佳吉を紹介され、その指導を受け、貝に核を挿入して真珠を養殖する実験を始めました。
途方もない夢を追う幸吉に対し、「あれは大山師だ」と地元の漁師たちはささやきあいましたが、幸吉は意に介さず「いやぁ、おれは大海師だ」と笑い飛ばしていました。
そしてついに明治28年、相島(現在のミキモト真珠島)で実験していた貝の中から、5個の半円真珠を取り出すことに成功したのです。商才に長けた幸吉は、聞もなく事業化に着手し、明治33年のパリ万国博覧会などにも積極的に出展し、養殖真珠の価値を世界に認めさせました。
次に幸吉が目指したのは真円真珠です。試行錯誤を繰り返していた明治38年、赤潮によって、幸吉が全財産をつぎ込んだ養殖貝の大多数が死滅しました。がっくり肩を落とした幸吉が死貝を処分している時、その中に五個の真円真珠を見つけたのです。
その後も研究を重ね、目標としていた真円真珠の養殖を軌道に乗せ、意気あがる幸吉は、明治天皇にお目にかかった際、「世界中の女の首を真珠でしめてご覧にいれます」と見得を切り、周囲を慌てさせました。
大正8(1919)年、幸吉の手になる養殖真円真珠がロンドン市場で売りに出されると、イギリスの宝石商から「模造品だ」との批判が出ました。反日的なマスコミがそれをあおり立てるのを見た幸吉は、真珠市場の中心であったフランスで訴訟を起こし、「養殖真珠は天然真珠に劣らない」という評価を勝ち取りました。
養殖真珠の品質を維持するため、採取量の5分の1しか市場に出さなかった幸吉でしたが、昭和に入って、同業者が粗悪品を出荷するようになり、海外市場での評判が落ちました。これを見た幸吉は、昭和7(1932)年、外国人が多い神戸の街で、100㎏以上の不合格真珠を火葬するというパフォーマンスを行い、日本産真珠の信用回復に努力しました。
真珠とともに生きた幸吉は、昭和29年、96歳の天寿をまっとうしました。彼の功績を伝えるミキモト真珠島は、鳥羽市の観光名所の中心となっています。
連載第118回/平成12年9月13日掲載