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戦前政党政治の功罪⑩ 選挙による政権交代がなかった「憲政の常道」

 大正13(1924)年の加藤高明護憲三派連立内閣の成立から、昭和7(1932)年に5.15事件で犬養毅立憲政友会(政友会)内閣が倒れるまで、二大政党が政権を交代する時代がわが国にもありました。いわゆる「憲政の常道」の時代です。
その間、政党政治家には、不安定だった議会政治を強固にする責任があったのですが、実際には、党利党略に走り、国民にそっぽを向かれてしまうことになります。
 「憲政の常道」期、首相を指名していたのは、最後の元老・西園寺公望でしたが、政権交代には2つのパターンがありました。
 第1のパターンは、前政権の総辞職の原因が、政治的な「失敗」ではなかったケースです。この場合、前政権の与党から新首相が指名されました。大正15年、加藤高明首相が現職のまま死去した後に指名されたのは、同じ憲政会(後に立憲民政党=民政党)の若槻礼次郎でした。昭和6年、浜口雄幸首相がテロにあって内閣総辞職した後も、同じく民政党の若槻が指名されました。
 第2のパターンは、総辞職の原因が前政権の「失敗」にあるケースです。この場合には、反対党に政
権が移っています。昭和2年に第1次若槻内閣は、枢密院の妨害で金融恐慌の救済措置をとることができず総辞職しました。その後、新総理に任命されたのは、政友会の田中義一でした。この田中内閣は昭和4年、関東軍による張作霖爆殺事件の事後処理を誤り、昭和天皇の逆鱗に触れて総辞職に追い込まれました。第2次若槻内閣では、満州事変勃発後、安達識蔵内相が挙国一致内閣への改造を主張して閣内不一致に陥れました。若槻は内閣を投げ出し、政友会の犬養内閣が成立しました。
 これが「憲政の常道」期における政権交代のすべてです。そこには西園寺の意思が強く反映されていました。
 もう一度、政権交代を整理してみましょう。○は民政党、◆は政友会です。
 〇加藤(死去)→○若槻(失敗)→◆田中(失敗)→〇浜口(遭難)→○若槻(失敗)→◆犬養。
 下の資料も併せてご覧ください。

憲政の常道とは何だったのか(クレジット怪童)


 お気づきのように、選挙による政権交代が、この「憲政の常道」と呼ばれる時期には一度もないのです。つまり、普通選挙は実現しても、国民の意思とは関係なく政権交代が行われていたということです。
 20世紀を目前に控えた明治33(1900)年、伊藤博文を総裁とした政友会が、政党の兄貴分として、藩閥、官僚、軍部といった、議会政治に圧力をかける勢力と戦い、あるいは妥協しながら憲政の進展を図り、二度にわたる護憲運動や、原敬の功績などにより、ようやく軌道に乗せた議会政治。それが、わずかの聞に消滅してしまった要因には、もちろん国際情勢の急激な変化や、それに伴う軍部の台頭など、さまざまなものがありますが、未熟な政党の議会運営、とりわけ、政党政治家の幼稚さが国民の政党離れを招いたという、紛れもない事実を忘れてはならないでしょう。
 教科書が戦前の歴史について、政党政治家やマスコミの責任を教えず、軍部の責任に矮小化することで、失敗の本質を教えないのは、いったい誰に忖度しているのでしょうか。今、戦前と同じように、長期政権に胡坐をかく与党と、政策論争ができない素人の寄せ集めのような野党に対する政治不信は危機的な状況にあると思います。心ある政治家が、本当の意味での憲政を確立する日は果たしてくるのでしょうか。
 筆者は、それには懐疑的です。

連載第137回/平成13年1月24日掲載


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