なにわの企業奮戦記⑧ 江崎グリコ株式会社
「一粒300m」の名コピー、戎橋から見えるゴールインのネオンサイン、誰もが遊んだ可愛い「オモチャ」の数々。江崎グリコ株式会社の歴史は、創業者・江崎利一の信念である「創意工夫」を、体現したものです。
江崎利一は明治15(1882)年、現在の佐賀市に生まれ、18歳で家業の薬種商を継ぎました。
大正8(1919)年のある日、利一は、浜辺で漁師が大量のカキをゆでているのを見ました。カキは乾燥させて輸出するのですが、煮汁は捨ててしまうとのこと。利一は、以前聞いた、「カキには動物のエネルギー代謝に必要なグリコーゲンが多く含まれている」という話を思い出しました。そこで漁師から煮汁を分けてもらい、それを煮詰めたものを分析したところ、予想通りグリコーゲンが含まれていることがわかりました。その日から利一の研究が始まりました。
翌年、チフスにかかって瀕死の状態に陥った長男に、医師の許可を得て研究途中のグリコーゲンを与えたところ、容態を回復させるという出来事がありました。「この事実をみんなに知ってもらいたい」。利一の情熱は、ますます高まりました。間もなく利一は予防医学の観点から、お菓子の中にグリコーゲンを入れ、子供たちの健康を支えようと決意するのです。
当時、子供たちに最も人気があった西洋菓子はキャラメルです。後発メーカーを押しのけて、森永、明治の先行2社がしのぎを削っていました。利一はこのキャラメルにグリコーゲンを入れることにしました。試行錯誤を重ねて商品化した製品、覚えやすくインパクトのある商標「グリコ」、オリジナルのハート型、目立ちやすい赤い箱、そしてあの「一粒300m」のコピー。全てを用意して、大正10年、利一は、すでに出張所を置いていた商都、大阪へ移って来ました。
テスト販売でのまずまずの結果を見て、利一はいきなり、百貨店の頂点に立つ三越を訪問しましたが、「お菓子とも薬とも判別できない商品」は当然のように拒絶されました。しかし利一は、数十回にわたって訪問を積み重ね、ついに店頭に置いてもらうことになりました。
期待に反してグリコは思うようには売れず、大量の返品やメインバンクの破綻など、倒産の淵に立つこともありました。そのたびに利一は陣頭に立ち、地元大阪を中心に宣伝を強化し、子供が立ち寄る学校前の文具店や菓子店などに商品を並べ、「必死の体当たり」で危機を打開しました。ようやくグリコの販売が軌道に乗ったのは、大正時代が終わりを告げようとする頃でした。
発売当初からグリコにはカラー印刷のカードが添えられていましたが、昭和2(1927)年からは本格的な「オモチャ」が封入されました。戦争激化のために中断された一時期を除いて、グリコの「オモチャ」は、今日に至るまで子供たちに夢を与え続けています。
その後も、酵母入りクリームサンドビスケット「ビスコ」、アーモンドというものを日本に紹介したと言っても過言ではない「アーモンドグリコ」と「アーモンドチョコレート」。ドイツのおつまみを改良し、今や日本の代表的な菓子となった「プリッツ」と「ポッキー」。その独創的な商品群には、おいしさと健康を追及する創業者の信念が凝縮されています。
※写真はいずれも江崎グリコ株式会社提供。『大阪新聞』掲載時、旧サイトアップロード時に同社より使用許可を得ています。
第109回/平成12年7月19日掲載