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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第9章 島津の進入と大島・沖繩⑦

7.薩摩藩による奄美大島支配

【解説】
 奄美の状況については、沖縄以上に知識がないので、何とも判断のしようがない。ただ、沖縄支配について、被害者史観を振りかざさない冷静な仲原が、奄美に関しては、過酷だという表現を遠慮なく使っていることを見ると、事実なのだろう。そして、沖縄の反日連が、奄美のことを持ち出さないのは、自分たちの先祖より過酷な扱いをされた人々がいたことを、隠すためなのかと疑ってしまう。しかし、沖縄の人々が過酷な運命に陥ったのは、島津のせいだけではない。王家による農民収奪のシステムがえげつなかったのだ。そこを美化しておいて、やれ島津が、やれ薩摩がといったところで、まともな人々は相手をしないのは当然のことだ。
 今まで表記していなかったのに、「慶長14年」だけ日本の元号表記になっているのかは、統一性がないので割愛した。そもそも維新までは、支那の属国だった琉球は、その証拠として、独自元号を使えなかったし、明清の元号をありがたく使わせてもらっていたのだ。
 島津の支配システムについては、箇条書きの見出しでまとめることにした。「甘藷と甘蔗」の支配については、項を改めることにした。

【本文】
 奄美諸島は、1609年の島津の侵攻の後、琉球王国を離れて薩摩藩の直轄領となりました。だから、明治4(1871)年の廃藩置県から昭和20(1945)年の大東亜戦争の終戦の時まで鹿児島県でした。戦後は沖縄同様、アメリカ軍に施政下におかれ、沖縄一足早く、昭和28(1953)年12月25日に祖国に復帰しています。
 島津氏の領地になっていた260年間には、極めて無慈悲な政治が行われ、ことに、明治維新までの最後の40年は、奄美大島の住民にとっては最も不幸な時代であったと考えられます。
 島津氏の奄美大島支配をまとめてみましょう。
1.大島、徳之島、沖永良部島にそれぞれ代官所を置いた。
 ・代官(長官)1人、検事(見聞役とも言います。裁判、警察業務を行い
  ました)1人(後に2人)、附役(事務官)2人が鹿見高から来ていま
  す。その下に数人の書役がいて附役の助けをすましたが、これはその土
  地の人でした。
2.各間切(村)には間切役所が置かれた。
 ・与人(間切長)、横目(農業その他の監督)、筆子(事務員)、掟(各
  字の事務)などの役人かおり、代官所の監督を受けて、間切内の行政を
  行いました。
3.住民を郷士(ごうし)格、百性、ヒザの三階級に分けた。
 ・郷士格の家柄の者が村役人になりました。郷士とは、鹿児島のいなかに
  住んでいる武士のことで、大島の郷士格はこれと同じ身分です。しかし 
  服装は沖縄と同じで、帯刀せず、銀のかんざしをさし、姓は一字姓に限 
  られていました。
 ・ヒザというのは、いわゆる奴隷のことです。下男下女の間に生れた人々
  で、牛馬のように売買されました。
4.土地は公田と私田にわかれ、公田は男女とも15歳から60歳までの百性に
  わりあてて耕作させました。
 ・公田は5年に1回割り替えていました。私田は主に郷士格の家が所有す
  る土地で、多くの下人を雇い、大規模に農業を経営し、土地の開墾も行
  っています。
5.租税は米の外、筵(むしろ)、シュロ、芭蕉糸などで、税率は収穫の約
  半分でした。

【原文】
六、島津は大島をどう治めたか 
 慶長十四年(一六〇九)大島群島は琉球王国をはなれ薩摩藩(島津氏)の領地になり、明治四年から太平洋戦争のおわる時までは鹿児島県でありました。
 島津の領地になっていた二百六十年のあいだはきわめて無慈悲な政治が行われ、ことにさいごの四十年は大島の住民にとってはもっとも不幸な時代であったと考えられます。
 島津氏はどのように大島をかさめたか。
(a)大島・徳之島・沖永良部島にそれぞれ代官所をおき、代官(長官)一人、検事(見聞役ともいい裁判、けいさつ等のことをする)二人(はじめは一人)附役三人(事務官)が鹿見高から来ています。その下に数人の書役がいて附役の助けをするがこれはその土地の人です。
(b)各間切(今の村)には間切役所があり、与人(間切長)横目(農業その他のかんとく)筆子(事務員)掟(各字の事務)などの役人かおり代官所のかんとくをうけ間切内の事務をとります。
大島の住民は郷士(ごおし(ママ))格・百性・ヒザの三階級にわかれ、村役人は郷士格の家柄のものがなっています。
 郷士は鹿児島のいなかに住んでいる士族で大島の郷士格はこれと同じ資格ですが服装は沖繩とおなじで刀をさゝず銀のかんざしをさし、姓は一字姓にかぎられていました。
 土地は公田と私田にわかれ、公田は男女とも十五から六十までの百性にわりあて、耕作させ五年に一回づゝ(ママ)割りかえていました。
私田はおもに郷士格の家がもっている土地で、多くの下人をやとい大きく農業をやって、土地の開こんもやっています。ヒザというのは下男下女の間に生れ主人の所有物となり、牛馬のように売買もされるあわれな人たちです。
租税は米の外ムシロ、シユロ((ママ))、芭蕉糸などで収穫の約半分を出さなければなりません。

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