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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第2章 部落時代③

3.日本の本土からやってきた稲作 

【解説】
  ご承知の通り稲作については研究が進み、かつて「稲作は弥生時代から」と教科書に書かれていたが、今は否定されている。原著の記述をそのまま使うことはできないので、全面的に書き直した。それ以外に、沖縄の稲作開始についての説明が少々混乱していたので、文意はそのままに整理して提示している。
 尚、「支那」とはChinaの日本語で、地名を指すものである。「中国」は地名ではない。

【本文】
 イネは原産地である南方から、沖縄、奄美大島に直接入ってきたのでしょうか、それとも北方の日本から入ってきたのでしょうか。
 日本の本土にも、沖縄から入ったか、朝鮮または支那から入ったかという論争がありますが、多くの学者は南方から支那にわたり、そこから日本へ入って来たものだと考えています。沖縄のイネも南方からきたものでなく、日本から奄美大島を経て入ってきたのであろうと考えられます。
 稲作が日本に伝わった時期は、まだはっきりとしていません。昔は、縄文時代には稲作はないと言われていましたが、岡山県の南溝手遺跡から約3500年前の籾のあとがついた縄文土器が見つかっており、遅くともそのころにはイネの栽培を行っていたのではないかと考えられます。岡山県の朝寝鼻貝塚から約6000年前のプラント・オパール(植物ケイ酸体。簡単に言うと、イネの化石です)が発見されており、その時期にすでに陸稲の栽培をしていた可能性があるといいます。
 大規模な水田を作り始めるのは縄文時代の末期だと思われていましたが、平成15(2003)年に国立歴史民俗博物館が行った研究によると、日本の水田は、紀元前1000年頃に開始されたということです。
 「主に石器や骨角器をつかい、縄文土器を作り、漁猟生活をしていた」縄文人に対し、「石器の他に、金属器(青銅器、鉄器)を使い、弥生土器を作り、農耕生活をしていた」弥生人というイメージが定着していますが、実は、縄文時代にはすで水田耕作は始まっていたのです。それと同時に、定住や村の大規模化が進みました。
 弥生文化は、渡来文化だと考えられています。紀元前3世紀ごろには支那、朝鮮半島~北九州を中心に様々なルートでの交流があり、水田耕作の洗練された技術、金属器、弥生土器などの製法は、大陸からやってきた人々から伝えられ、日本人がものにしていったのだと考えられています。
 弥生土器は縄文土器よりははるかに進歩した土器です。この土器は弥生町と呼ばれていた現在の東京都文京区弥生で発見されたので、その地名をとって名付けられました。この技術が日本の全国に行きわたるには300年ほどかかっています。
 沖縄でも各地で弥生土器が出土しています。薩摩半島の高橋遺跡からは沖縄でとれた貝輪を加工していたあとが残っており、貝殻と弥生土器とを交換していたようです。そしてその頃、つまり紀元4~3世紀に、沖縄に日本の本土からイネが伝わったものと思われます。
 沖縄の古い伝説に「昔、アマミコという人が玉城村宇百名の南、ウケ水ハリ水という泉の下方の田にイネを初めてまき、久高島には麦、アワ、キビ、豆をまいて住民に農業を教えた」とあります。これらの穀物の名が日本語とほとんど同じであり、栽培の技術から、イネから米にする方法、イネをたくわえる高倉、米をむしたり炊いたりする食べ方、もち、だんごを作ることも似ています。イネの初穂を神に捧げ、神酒(みき)を作って神をまつる民俗まで全くおなじです。明らかに沖縄には、日本の本土から稲作が伝わったのです。
 弥生時代の遺物に、銅鐸があります。これは釣鐘を左右からおしつぶしたような形のもので、西日本の各地から弥生土器と一緒に発見されます。沖縄、奄美大島は銅鐸の文化圏ではありませんが、その表面に、下の絵のような線画が描かれているものがあります。戦前まで残っていた沖縄、奄美大島の民俗を見るようです。この精米方法や高床式の倉庫は、沖縄、奄美大島における、昔の稲作を描いているように見えます。

01銅鐸の絵(上)

木の臼にもみを入れて、木の堅杵(かたぎね)でつき、もみ殻を取り除いて玄米にする。後になると、もみをすり臼ですり、精米のために臼と杵がつかわれた。

02銅鐸の絵(下)

円い柱を立て、その上につくった高倉。大水やネズミの害を避け、イネ、アワを貯蔵する。

 銅鐸に描かれているということは、西日本も、弥生時代はこういう民俗であったということです。水田あとの遺物によってもそういうことがわかってきました。また東日本でも、青森県の三内丸山遺跡では、大規模な倉庫群が発掘されています。沖縄や奄美大島に、このような高倉がたくさん立てられたことは「オモロ」という古代の歌や組おどりにも描かれてており、明治の末までそれらは残っていました。

【原文】
三、いねの栽培 
 いねは原産地である南方の国々からちょくせつに沖繩・大島に入ってきたのか、それとも北の方の日本から入って来たのか。日本の方でも沖繩から入ったか、朝鮮又は中国から入ったかという問題がありますが、多くの学者は南方から中国にわたり、そこから日本へ入って来たものだと考えています。それにはいろいろの理由があるがこゝでははぶいておきます。
 沖繩の米も南方からきたものでなく、日本から大島をへて入って来ただろうと考えられます。ではこの米作日本人(ママ)はいつごろ日本に入って来たかというと約二千年ぐらい前(紀元一世紀前後)だと考えられます。
この米作をした人たちは、「前の時代のように石器をつかい繩文土器をつくり漁猟生活をしていた人たち」とちがい「石器の外に金属器―銅鉄―をつかい弥生式土器をつくり、農業生活」をしています。
 弥生式土器は繩文土器よりははるかに進歩した土器です。この土器はさいしょ東京・本郷の弥生ケ岡から発見されたのでその名をとったのです。米作がはじまった時代、北九州と朝鮮・中国とはひんぱんに交通しているから、米・金属器・弥生式土器のつくり方は大陸の人から習ったものだと考えられています。それが日本の全国に行きわたるには三百年ばかりかゝっています。
 それで沖繩の方へもいねがつたわったのは紀元三・四世紀、すなわち、今から千・五六百年もまえでしょう。
     弥生式土器は九州の南まで分布し、大島からも出ているが、沖繩 
    からは、まだ発見されていません。しかしまだ考古学者に知られて
    いないということで、ないとはいえません。
     銅鐸といって、つり鐘を左右からおしつぶした形のものが西日本
    の各地から弥生式土器といっしょに発見されます。その表面に左図
    のような線画があります。この図は沖繩・大島の米作と深い関係が
    あります。沖繩・大島からまだ銅鐸も見つかっていませんが、しか
    しこの絵は近ごろまで大島・沖繩にのこっていた民俗です。
     ※上図 省略
     (上図のキャプション)
       木臼にもみを入れて木の竪杵でつき「から」を去り玄米にす    
      る。(後になるともみをすり臼ですり、米をしらげるために臼
      と杵がつかわれる)。
     ※下図 省略
     (下図のキャプション)
       円い柱をたてその上につくった高倉、大水やねずみの害をさ
      けていね・あわをたくわえる。
     沖繩や大島にはこの高倉がたくさん立てられたことはオモロとい 
    う古代の歌や組おどり にも出ており、明治の末までのこっていま
    した。今でものこっているかも知れません。日本もこの時代はこう
    いう民俗であったことは、水田あとの遺物によってもわかってきま
    した。
     銅鐸や弥生土器がつたわったかどうかは別として米作が日本から
    来たことはまちがいないでしょう。
     沖繩の古い伝説に「昔アマミコと云う者が玉城村宇百名の南、ウ
    ケ水ハリ水という泉の下方の田にいねをはじめてまき、久高島には
    麦・粟・黍・豆をまいて住民に農業を教えた」といいます。これら
    の穀物の名が日本語とほとんどおなじであり、栽培の技術から、稲
    から米にする方法、いねをたくわえる高倉、米をむしたりたいたり
    する食べ方、又もち・だんごを作ることも似ています。いねの初穂
    を神にさゝげ、神酒をつくって神をまつる民俗までも全くおなじこ
    とです。

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