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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第1章 太古の人々の生活(原始時代)②
2.沖縄・奄美大島の太古の生活
【解説】
まだ、弥生時代までの話なので、沖縄の独自色はあまりない。内地の様子もほとんど同じだっただろう。ただ、仲原の執筆したころにはなかった遺跡や遺物の成果があり、沖縄史としての独自性を出すためにその一文を書き加えた。筆者は歴史の教師ではあるが、先史時代は専門分野ではない。もっと他に紹介すべきところがあれば、ご指摘をいただきたい。
稲作の話は若干勇み足であるが、本文中に登場するので一応記載しておく。そのため、文の順序を入れ替える必要があった。
注目すべきことは、仲原がここで、「琉球人は日本人と同種である」と、「琉球民族」をはっきりと否定していることである。昭和20年代後半の時点でである。今では、DNAの研究などから、内地の日本人と沖縄の日本人が同じ「人種」であることは科学的に証明されているが、いまだに「琉球民族独立」などと幼稚な空想物語で沖縄を不幸に陥れようとする極左勢力(その陰に中共が蠢いているという指摘もある)がいることはあまりにも滑稽である。沖教祖などにとってこの本が「都合が悪い」のはこういうところにもあるのかも知れない。
【本文】
平成22(2010)年、サキタリ洞遺跡(南城市)で約1万2千年前(旧石器時代と縄文時代の間の時代)の打製石器と人骨が一緒に発見され、沖縄の旧石器文化を解明する第一歩になりました。これまで沖縄では旧石器時代の人骨は多く発見されていましたが、打製石器の出土はなく、今後の研究に期待が寄せられています。
その後、磨製石器を用いるようになった時代を新石器時代と言います。この時代の道具は、石器、骨器、貝器、土器などで多くは、貝塚から出土しますが、住居あとや、現在の住宅地で発見されるのもあります。
石器は斧(石斧、木の柄をつけて木を切る)、魚を捕る銛(もり)、網のおもり、たたき石(手に握って「ハンマー」として物をたたいて、打ちくだくもの)、皿、矢の根石(やじり。石鏃)などがあります。骨器は錐(きり)、針のほか、ネックレスなどにも使われました。貝細工としては、サキタリ洞遺跡で2万3千年前の旧石器時代に作られた世界最古の釣り針が平成28(2016)年に発見されています。その他にも、小刀、錘(おもり)、皿、銛などの実用品もありますが、ネックレスやブレスレットなどのアクセサリーが多いといわれます。
魚取りに舟も使ったと思われますが遺物はありません。また遺物の中には何につかったかわからないものもあります。
沖縄のこの時代の土器は、やはり縄文土器に似た「かめ」や「つぼ」が多く、模様は九州地方の後期縄文時代のものと似て簡単なものです。
貝塚から出る遺物で、この時代の人々の食べたものもわかります。貝類はハマグリ、サルボウ、シャコ、ウニ、タニシ、カタツムリなどで、カタツムリは好んで食べたようです。魚類はベラ、タイ、ブダイ(イラブチャー)、カツオ、ボラなどが多く、イカ、カニ、サメ、ジュゴンなどもあります。
山にはイノシシが多く、弓矢で狩ったようです。犬はイノシシ狩りに使ったのだと思われます。また木の実、草の芽を集め、それを補って食用にしていました。
機織はまだ知らなかったようです。そのため、植物つるや草の繊維であんだものを身に着けていたようです。
人々は、貝を集め、魚を取り、山で狩りをし、植物を取って生活していたので、この時代を漁猟時代といいます。また原始的な生活をしていたので、原始時代ともいいます。
もしかしたらこの時代にも、簡単な植物の栽培が始まっていたかも知れません。そこへ稲作を中心とした農業が伝わると、土地を耕して種子をまき、それを収穫して生活する方法が主流になります。農業の始まりは社会全体の一大進歩を意味しています。人々は長い間の原始生活をぬけ出し、文明社会をつくるところまで来たということです。
稲作は他の地方から伝わって来たものなのか、それとも、稲作を知っている人たちが移住して来て教えたのかわかりませんが、おそらく、後者だろうと考えられています。
沖縄に以前からいた人たちと、移住してきて稲作を教えた人たちが別の人種かというとそうではありません。
大正時代までは、日本の本土から奄美大島、沖縄まで、アイヌが住んでいて、石器や土器を作ったのは彼らではないかという説もありました。しかし、人類学や考古学の進歩によって、それは誤りで、原始時代の人々は、今の日本人の祖先だということが明らかになりました。アイヌは奄美大島、沖縄には住んでいなかったということです。これは、DNAの研究でも証明されています。原始時代、沖縄に住んでいた人も、本土に住んでいた人も「日本人」であって、「琉球民族」という人種は存在しません。
稲作農業を沖縄に伝えた人々は、わずかな人数だったかも知れません。しかし、その新しい技術は、たちまち多くの住民に伝わりました。そして衣食住はもちろん、社会のしくみまでかわり、その後の文化の基礎となりました。
以上、私たちは、原始時代の沖繩の人々の生活を描いてきましたが、貝塚などの研究がもっとすすみ、遺物ももっと多く発見されると、もっと詳しいことがわかると思います。
【原文】
2.沖縄・奄美大島の太古の生活
沖繩・大島では、まだ旧石器は発見されていません。しかし、そうだからといって、本土の旧石器時代にも、ここは無人島だったということは出来ません。
新石器時代の人の道具は、ここでも石器・骨器・貝器・土器などで多くは、貝塚から出るが、住居あと又は地家で発見されるのもあります。
石器は斧・錘・たたき石、皿、矢の根石などがあります。骨器は錐・針のほか首かざりなどです。貝細工は、小刀、錘(おもり)、皿、銛(もり)などの実用品もあるが、首かざり、腕環などのかざりものが多いといわれます。
土器はやはり繩文土器ににた「かめ」「つぼ」が多く、模様は九州地方の後期のものと似てかんたんなものです。
貝塚から出る遺物で、彼等のたべものもわかります。貝類はハマグリ、サルボウ、シャコ、ウニ、タニシ、カタツムリなどで、カタツムリはこのんでたべたようです。魚類はベラ、タイ、ブダイ、カツオ、ボラなどが多く、いか、かに、さめ、じゅごんなどもあります。
石斧(せきふ)は木の柄をつけて木をきり、錘は網のおもりで
す。たたき石は槌のように物をたゝいて、打ちくだくもののようで
す。しかし、遺物の中には何につかったかわからないものもありま す。
魚をとる銛(もり)や網のおもりがあるから釣針もつかったかも知れないが、まだ発見されていません。舟も使ったにちがいないが遺物はありません。
山には猪が多かったようで、弓矢で狩ったらしく、犬はこの時につかったものでしよう。
その時代の人は、貝をあつめ、魚をとり、狩りをして生活していたので、漁猟時代といい、又原始的の生活ですから原始時代ともいいます。
機織はまだ知らなかったようです。そのため、草やかつら(ママ。かずらの誤植と思われる)のせんいであんだものをつけていただろうといわれます。
以上われわれは、原始時代の沖繩の人々の生活をえがいて見たが、貝塚などの研究がもっとすすみ、遺物ももっと多くなると、もっとくわしいことがわかると思います。
このように、川や海でたべ物をあさり、山で狩りをするかたわら、野山で、木の実、草の芽をあつめ、たべ物をおぎなったでしょう。そればかりではなく、かんたんな植物さいばいがはじまっていたかも知れません。
そこへ稲を中心とした農業がはじまります。土地をたがやして種子をまき、その収穫で生活する方法がはじまります。
それは社会全体の一大進歩を意味し、人々は長いあいだの原始生活をぬけ出し、文明社会をつくるところまで来たわけです。
米作は他の地方から、つたわって来たものなのか、それとも、米作を知っている人たちが移住して来て、他の人たちにもおしえたのか、おそらく、移住して来ておしえたのだろうと考えられています。
それでは、前からいた人たちと米作人とは別人種かというとそうではありません。
大正時代まで、日本々土から大島・沖繩まで、アイヌ人がすんで
いて、石器や土器を作った人々はアイヌ人ではないかとの説もあり
ました。
しかし、人類学や考古学の進歩によって、それはあやまりで、原
始時代の人々が、今の日本人の祖先だということが、明らかにな
り、アイヌ人は大島・沖繩にはすんでいなかったということです。
米作農業をつたえた人々は、わずかな人数だったかも知れませ
ん。しかし、その人たちが伝えた農業はたちまち多くの住民につた
わり、衣食住はもちろん、社会のしくみまでかわり、その後の文化
のもととなります。