なにわの企業奮戦記② ダイハツ工業株式会社
テレビがようやくお茶の間の主役になりつつあった昭和32(1957)年8月、ミゼット(初代)が販売されました。総排気量249㏄の可愛らしい軽3輪自動車は、テレビの人気者・大村昆さんらのユニークなCMも功を奏し、大ヒット商品となりました。
このミゼットを開発したのが、ダイハツ工業株式会社です。ダイハツは、国産自動車第一号「タクリー号」が完成する一カ月前、明治40(1907)年3月に発動機製造株式会社として発足しました。
日露戦争後、我が国は近代化への道を歩み始めていましたが、技術の国産化という点ではまだまだでした。とりわけ、原動機の国産化を急務と見た大阪高等工業学校(現大阪大学工学部)校長・安永義章、同校機械科長・鶴見正四郎らは、大阪の実業家・岡實康、桑原政、竹内善次郎らに働きかけ、会社設立を呼びかけました。岡たちはこれに呼応し、ここに原動機国産化の意欲に満ちた、新会社が発足したのでした。
工場は、まだ田園地帯であった大阪駅の北西・中津に設置され、同年末には第1号製品を完成させました。明治41年1月から営業を開始し、需要も次第に増えて、会社は順風満帆に船出しました。
同社が最初に自動車を作ったのは、大正8(1919)年のことでした。前年に公布された軍需工場動員法により、民間自動車製作指導工場に指定された同社は、軍から設計図などの提供を受け、試作車2台を完成させたのでした。軍の都合により量産化には至りませんでしたが、この体験は、後にダイハツが自動車メーカーとして成長するきっかけとなったのです。
不況の中で迎えた昭和の御代。当時、英国製バイクのエンジンを3輪車に架装することが流行っていました。一方、商工省は小型自動車に関する法令を改正し、輸入抑制と自動車産業育成に乗り出しました。
その頃すでに、350㏄ガソリンエンジンを試作していた同社は空冷4サイクル500㏄ガソリンエンジンを開発し、昭和5年末には、そのエンジンを搭載した完全国産の三輪自動車「ダイハツ1号車HA」を世に送り出したのでした。改良型も加えた「ダイハツ号」は市場を席巻し、支那事変が始まった昭和12年には、市場占有率が3分の1にも及びました。
翌昭和13年には現在本社がある池田市に工場が完成しました。生産拠点が確保されたのも束の間、国家総動員法による資材の統制により、3輪自動車の生産は自ずと制限されていきました。戦時中は、木炭使用代燃3輪車やキャタピラーの付いた6頓牽引車など、軍需品の製造が中心となりました。
軍需工場として機能し続けてきた同社は、終戦直後の混乱も最小限で切り抜け、昭和26年には、同社の代名詞のようになっていた商標「ダイハツ」を社名としました。その後はミゼットなど三輪自動車のヒットを飛ばしました。
昭和30年からは4輪自動車の開発に取り組み、今日に至るまで次々と新製品を市場に送りだしています。
街で見かけるユニークなフォルムのミゼットⅡ。東南アジアで今も現役の初代ミゼット。斬新なデザインと経済性が、大阪の自動車メーカーの面目躍如といったところです。
※写真はいずれもダイハツ工業株式会社提供。『大阪新聞』掲載時、旧サイトアップロード時に同社より使用許可を得ています。
連載第104回/平成12年5月31日掲載