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スポーツ日本史⑧ 色褪せない69連勝~横綱双葉山

 大相撲の長い歴史の中で、名横綱と詠われた人は数多くいますが、特筆すべきは、昭和戦前期に活躍し、引退後は時津風理事長として部屋別総当たり制を創設するなど、大相撲改革に取り組んだ双葉山定次(本名・穐吉定次)です。
 双葉山は明治45(1912)年、大分県宇佐郡天津村(現宇佐市)に生まれました。家業の手伝いで和船の櫓を漕いでいたことが、自然と足腰を鍛えることになりました。彼に大相撲入りを勧めたのは、村祭りの相撲大会で活躍した定次の評判を聞きつけた大分県警察部長・双川喜一でした。しこ名となる「双葉山」の「双」の字は、彼の名字からとったものです。
 定次が立浪部屋に入門したのは昭和2(1927)年のことでした。順調に出世した双葉山でしたが、十両でいきなり負け越して、大きな壁にぶつかりました。
 ところが十両3場所目の昭和7年春場所直前のこと、関脇・天龍を中心に相撲改革を唱えて幕内力士の半分が相撲協会を脱退するという「春秋園事件」が起きました。相撲協会は急遽番付を作り直し、十両、幕下28人を幕内と十両に引き上げて、新入幕8人、新十両15人という前代未聞の措置で何とか本場所を開くことになりました。このうち5人は、幕下から十両を飛ばして幕内に抜擢されました。
 双葉山も十両から幕内に抜擢された非力な若手力士のひとりでした。当時の双葉山は、強靫な足腰に頼った受け身の相撲が多く、「うっちゃり双葉」と呼ばれていました。番付は一進一退を繰り返していましたが、この時期に双葉山は徐々に、駆け引きのない、粘り腰の、自らの相撲スタイルを完成に近づけていたのです。
 双葉山の「受け身」には訳がありました。子供の頃に右目にけがを負い、ほとんど視力がなく、遠近感がつかめなかったからなのです。しかしそのハンデは、引退まで誰にも知られることはなかったといいます。
 昭和11年春場所7日目に瓊ノ浦(春秋園事件のあと、幕下から幕内に抜擢されたひとりです)に勝利してから、双葉山は69連勝の金字塔をうち立てることになります。その間、昭和12年夏場所後、26歳で横綱に推挙され、人気、実力ともにピークに達し、昭和初期一時低迷していた大相撲人気を、事実上ひとりで復活させました。
 昭和14年1月15日。春場所4日目は薮入りの日曜日で、両国国技館は超満員でした。前日の取組中から行列ができるほどの異常な盛り上がりの中、双葉山の70連勝をかけた大一番が行われました。ところが結果は、初顔合わせの安芸ノ海に左外掛けで敗れ、3年間負けがなかった双葉山に土がつきました。
 館内は、座布団はもちろんのこと、火鉢まで飛ぶという興奮のるつぼ。それは新聞記者にも伝染して、決まり手を間違えて記事にする始末。街では号外が配られました。
 双葉山は、前年の満州巡業でフメーバ赤痢にかかってから体調を崩していたのですが、4横綱のうち、玉錦が場所前に急死し、武蔵山が休場、35歳の男女ノ川に活躍は望めず、万全の体調でない双葉山も休場できなかったのです。
 まさかの敗北にも、ひとり双葉山は冷静でした。私淑していた漢学者・安岡正篤に「未タ木鶏タリエス・フタバ」と電報を打ちました。鍛えられた闘鶏は、まるで木鶏のように泰然としている。自分はまだ修行が必要だ。双葉山はそう言いたかったのでしょう。
 体を鍛えるとともに、常に心を鍛えることも怠らなかった双葉山。大相撲は決して単なるスポーツではありません。横綱はすべての力士の模範とされます。現代の横綱にも、双葉山の精神を継承してほしいものです。

連載第80回/平成11 年11 月17日掲載


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