教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第11章 18世紀以降の産業と生活①
1.農村の生活①~農地と農具
【解説】
文章は簡単に整理したが、この個所は非常に重要なところである。琉球王国の、事実上の農奴制について、具体的に記述されている。歴史的事実を無視して、過去を美化する傾向があることはすでに述べたが、実際のところ、沖縄県民の先祖の90%を占めていた農民の実態を直視せずに、そこから学ぶことはできない。薩摩の統治が良かったとは言わないが、それでは間接統治をしていた琉球王府はどうだったのか、そこをまじめに問うことから始める必要があるのではないか。同じことは、朝鮮にも言える。
【本文】
薩摩はその支配初め(17世紀初め)に、沖縄全土を測量しました。その結果、耕地面積は約1万町歩(9920ヘクタール)で、田と畑の割合は3:7でした。作物をすべて米に換算すると、約9万石の生産力があると薩摩は判断しました。人口調査はしませんでしたが、当時の人口は推定で約10万人と考えられます。
それから約150年後の蔡温の時代には、人口は約2倍、耕地面積は約2倍半、田畑の割合は変わらず、畑作は甘藷が大部分を占めますが、甘蔗も作っています。
甘藷は1605年に野国総官が明から持って来たもので、儀間真常が栽培法を工夫して広めたもので、1700年頃には1年2作となっています。収穫も多く、防風にも強いので、いつの間にか農民一般の常食となりました。また農村では、家畜、ことに豚を飼うことが盛んになってきました。
1623年に儀間真常は人を大陸にやって製糖法を学ばせましたが、これもたちまち本島に広がり、1647年からは島津氏へのおもな租税となりました。薩摩藩は、奄美大島の砂糖と共に、沖縄産の砂糖を大阪で売り、大きな利益を得ていました。
しかし、甘蔗栽培が盛んになると、農民の主食である甘藷の畑が数なくなること、また砂糖の価格調整することを目的に、甘蔗栽培の面積を1500町歩に制限しました。これは明治21(1888)年まで続きました。
農具は水田用、畑用の鍬が1種類ずつ、そのほか、鎌、へら等鉄製のものがとりあえず農村に行きわたっていました。鍛冶屋も各間切にできていましたが、本土にくらべると農具の種類も少く、能率は低いものでした。籾摺り用の臼はありましたが、稲をこく道具はきわめて原始的な2本の竹管でした。日本ではいねこきに千刃こき、米つき、麦つきには足で踏む臼を使い、水車を使った米つき、粉つきも始まっていました。
製糖用の車は木製でした。それが石製になったのは1860年、鉄製になったのが1878(明治25)年のことです。
奄美大島ではすでに1720年ごろに田畑佐文仁が木の水車を、1808年に柏有度が鉄車を発明しています。
【原文】
第十一章 王国後期の産業と生活
一、農村の産業と生活
島津は沖繩全土のそくりょうをやりました。
田畑が約一万町歩、そのわりあいは三村七です。作物をすべて米になおすと約九万石の生産力があると見ています。人口はしらべていないがほゞ十万人と見てよいでしょう。
百五十年後の蔡温時代(一七五〇年)には田畑は二倍半、わりあいはやはり三対七、人口は二十万、畑作は甘藷(いも)が大部分をしめ、砂糖もつくっています。
いもは一六〇五年に野国総官が中国からもって来たもので、儀間真常が栽培法を工夫してせけんにひろめたもので一七〇〇年ころには一年二作となっています。収穫もおおく暴風にもつよいから、いつのまにか農民一ぱんの常食となり又家畜、ことに豚をかうことがさかんになってきました。
砂糖も儀間真常が人を中国にやって習わしたもので(一六二三年)たちまちの内に沖繩本島にひろがり二十年後の一六四七年から島津氏へのおもな租税となり島津は大島の砂糖とともに大阪でこれを売り大きな利益をかさめています。
しかし農民の主食たるいもの畑がすくなくなることと、大阪で高くうるために栽培の面積を一千五百町歩にせいげんし、明治二十一年までこれがつゞいています。
農具は水田用・畑用のくわ一種ずつ、そのほか、かま・へら等鉄製のものが一まず行きわたり、かじやも各間切にできているが日本にくらべると種類も少く、のうりつも高いとはいえません。
製糖用の車は木製で石製になったのは一八六〇年、鉄製になったのが明治十五年(一八七八)です。
大島ではすでに一七二〇年ごろ田畑佐文仁が木の水車を、一八〇八年に柏有度が鉄車を発明してこれをつかっています。
いねをこく道具はきわめて原始的な二本の竹くだで、もみすりだけはすりうすができています。日本ではいねこきに千刃(せんば)、米つき麦つきには足でふむうすをつかい又水車の米つき粉つきもはじまっています。