見出し画像

教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第8章 王国時代前期の文化①

第8章 王国時代前期の文化

【解説】
 ここでは、薩摩が侵入するまでの、琉球王国時代の文化を紹介している。筆者の知らないことが多く、興味深かった。まだ沖縄に移住してから博物館に行く機会がないのだが、訪ねてみようと思う。
 動植物名はわざと漢字にした。原本は表記にばらつきがあったので統一するためだ。
 読んでいて驚いたのは、同時期の本土に比べて、かなり遅れているという紛れもない事実だ。内地では穂首刈りは弥生時代に終わっているはずだ。勿論、気候の違いなどの条件もあるだろうが、脱穀の方法にしろ、かなり原始的な農業を行っていたように思える。その点については強調して指摘しておいた。食生活は、肉食が禁じられていなかった分、内地よりも豊かに見える。
 この中継貿易が盛んな時期に、もう少し王家が庶民を顧みておれば、朝貢国ではあっても、琉球が独自の発展を遂げていた可能性は高いと思う。その後の日本の統治を否定したいがために、王朝時代を美化する傾向は、朝鮮人の偽史の創造と同じ傾向だが、それは全く意味のない自慰行為だ。王家がどのような存在であったかを直視し、そのために滅亡したのだから、そこから為政者、リーダーのあるべき姿を学べるかどうか。それが歴史を紐解く意義ではなかろうか。残念ながら、漢人の子孫を無意味に誇る人々や内地から来た職業左翼に踊らされて、DNAで否定されている「琉球民族」を僭称し、過去の栄光(実際には栄光でもないのだが)に浸ったところで、沖縄は幸福にはならない。勿論、日本の地域文化としてのロマンは残せばいいし、受け継いでいくべきだと思う(大阪人である筆者もそれは同じだ)。しかし、この地域の先祖たちができなかった現実直視をできるかどうか。リアリズムを追求できるかどうかが重要だ。そこに沖縄の未来がかかっている。

【本文】
 王国時代の人々はどんな生活をしていたのでしょうか。
 第一尚氏から第二尚氏のはじめに(14~15世紀中頃)、朝鮮からの漂流船が沖縄に来たことが3回あります。その時に朝鮮人は、沖縄本島だけでなく、八重山、宮古の島々、久米島と、各地の様子をかなり詳しく記録しています。これをもとに、当時の様子を描いてみましょう。

1.農業

 田と畑の割合はほとんど同じぐらいで、水田は牛に踏ませ、旧暦の10月に種子をまき、正月に苗を植え、5月に鎌で稲の穂先を刈り取る「穂首刈り」で収穫しました。まるで本土の弥生時代のようです。やせた田はそのままにしておき、またばえ(ひこばえ)の穂があれば、それを10月に刈り取ります。肥えた水田は牛に踏ませたあと、6月に種子をまき、10月に穂を刈り取ります。畑に植える稲(おかぼ)は3月にまき7月に穂を刈ります。
 稲の穂は共同の高倉に蓄えるか、広場に積んでおいて、少しずつ取りだして竹の管でもみをこぎおとします。原始的な脱穀の方法です。
 田の肥料として牛の糞を施しますが、わらもそのま肥やしにしました。
 稲の他の穀物としては、麦、黍(キビ)、大豆を作りました。野菜は大根、山芋、茄子、瓜、冬瓜、韮(ニラ)、葱(ネギ)、生姜(ショウガ)、萵苣(チシャ)、瓢(ヒサゴ。ヒョウタン、チブル)などを作りました。
 家畜は牛、馬、山羊、鶏、犬、豚、家鴨(アヒル)などを飼いました。馬は乗用、駄用で、女は横向きに乗りました。

2.衣食住

 日本の本土では仏教の影響が強く、肉食はあまり行われていませんでしたが、沖縄では牛、馬その他の肉を食べました。しかし、宮古、八重山では鶏肉を食べなかったようです。八重山のある島でのこと。原住民は、牛、鶏が死ぬと穴を掘って埋めていたので、「なぜそんなことをするのか。牛や鶏の肉は食うものだ。埋めてはいけない」というと、島の人はそれを馬鹿にして笑ったといいます。本当ではもう、ご飯を炊く時には鉄のお釜を使っていましたが、この島ではまだ鉄の釜がなく、土器を使っていたので、5、6日で壊れていたということです。
 食器は漆ぬりの木器、陶磁器、竹箸をつかいました。ある島では竹の鉢に入れた飯をまるく握り、掌に置いた木の葉の上に載せてのせていたといいます。数は3つまでと決まっていたそうです。
 木綿はなく、苧(からむし)の布で着物を作りました。色は白か藍染めで、模様の入ったものもありました。男は袖の広い長衣、女は朝鮮のチマチョゴリに似た胴衣(どぅじん)と裙(かかん。スカート上のもの)か、男と同じものを来ました。足は日本のような草履をはきましたが、裸足の者が多かったようです。
 建物は、王宮も寺も板葺き(いたぶき)でした。民家は茅葺(かやぶき)です。
 お金は明のものを使いました。これは本土も同じです。
 その頃、那覇の町には日本、明の商船がやってきて盛んに交易をおこなっています。肌の色が黒い人もいます。東南アジアの商船も姿を見せていました。

【原文】
一、生産と生活 
この時代の人はどんな生活をしていたか。第一尚氏から第二尚氏のはじめに(十四世紀~十五世紀中ごろ)朝鮮から漂流してきた舟が三度あるが、彼等が見た沖繩のようすをしらべて見ましょう。その人たちは八重山・宮古の島々久米島・沖繩と、かわった地方のことをかなりくわしくかたっています。
 田と畑のわり合いはほとんどおなじぐらいで、田は牛にふまし、十月(旧)に種子をまき、正月(旧)に苗をうえ(第二章をみよ)、五月にかまでいねのほさきをかり取る。やせた田はそのまゝにしておき又ばえから出たほを十月にかり取る。こえた田は牛にふまし六月に種子をまき十月にほをかり取る(今はどうしていますか)。
 畑のいね(おかぼ)は三月にまき七月にほをかる。
 いねのほは共同の高倉にたくわえ、又はひろ場につんでおき、少しづゝ取りだして竹管(くだ)でもみをこぎおとす。
 牛のふんをこやしとして田に入れる。わらもそのまゝこやしにする。
 いねの外に麦・黍(きび)・大豆をつくり野菜は大根、山いも、なす、うり、冬瓜、にら、ねぎ、しょうが、ちさ、ひさご(ちぶる)などをつくる。
 家畜は牛・馬・山羊・にわとり・犬・豚・あひる等がある。馬は乗用・駄用で、女はよこむきにのる。牛・馬その他の肉をたべる。(宮古・八重山はにわとりの肉をたべないという)。
 飯をたくには鉄のかまをつかうが、ある島(八重山の)ではまだ鉄のかまがなく土器をつかうので五六日でこわれるという。
 (その島では牛とにわとりが死ぬと穴をほってうめるので、その肉は食うもんだ、うめてはいかんというと島の人はつばをはいて笑ったという)。
 食器は漆ぬりの木器、陶磁器、竹箸をつかう。
 (ある島では竹の鉢に入れた飯をまるくにぎり、みんなの手のひらにおいた木の葉の上にのせてやる。三つまでやるという)。
 木綿はなく苧の布できものをつくり白又はあい染め、もようものもある。男はそでのひろい長衣、女は朝鮮とおなじもの(どじん・かゝん)又は男とおなじものをきる。足ははだしが多く、又日本のようなぞうりもはく。
 王宮も寺も板ぶき、民家はかやぶきである。銭は中国のものをつかう。
 那覇の町には日本・中国・南洋の商船があつまり交易をしている。色のくろい南方の人もきている。

いいなと思ったら応援しよう!