なにわの近現代史PartⅡ⑦ 大阪落語戦争
連日多くの人出でにぎわう道頓堀。この平和な歓楽街で、何と「戦争」が勃発しました。
法善寺横丁にあった、金沢亭と今嘉の席は、かねてから上方落語のメッカとして張り合っていました。奇しくも日清戦争勃発の年、上方落語界が真二つに分かれ、話芸による戦いの火蓋が斬って落とされたときも、この2つの寄席が、その主戦場となりました。
上方落語の祖は、生玉神社で行われる「彦八まつり」で有名な米沢彦八です。彦八は元禄年間に活躍したのですが、中興の祖と仰がれるのが、幕末から明治初年に活躍した桂文枝(初代)です。文枝には「四天王」と呼ばれる高弟がいました。年長者から順に、文之助、文三、文都、文団冶(初代) 。明治7(1874)年に文枝が亡くなると、彼らは2代目襲名をめぐって火花を散らしました。結局、文三が2代目を継ぐことになると、文之助は曽呂利新左右衛門を名乗り、文都は襲名できなかった悔しさを屋号に示して「月亭」(継ぎてえ) を名乗りました。文団治も「桂亭」を名乗って、それぞれ桂派を去ってゆきました。
明治 15 年、この争いが高座の取り合いというかたちで再燃しました。文都が今嘉でトリをとると、文枝は金沢亭、文団治は御霊神社前にあった吉田席に、という具合です。
さて当時、平野町の此花席など、3つの寄席を経営していた、藤原重助という興行師が気をもんでいました。「このままでは大看板がなかなかわしの寄席に出演してくれへんがな」。
そこで一計を案じました。それは、襲名争いの再燃です。
明治 26 年秋、此花席に、文枝と懇意の笑福亭松鶴(3代目)が出演したときのこと、重助はわざと、本来トリをとるべき松鶴を差し置いて、文枝の弟子である扇枝をそこに据えたのです。そして松鶴に、「顔つぶして悪いなぁ。これは文枝の差し金やねん」と囁いたのです。
怒った松鶴が金沢亭に出入りしなくなると、重助は、文都と松鶴を接近させました。それを見た文枝が怒りを爆発させ、ついに松鶴と絶交状態に。文都は、「名跡を継げなかった恨みを晴らすチャンス到来」とばかりに、新左右衛門、文団冶(2代目) にも声をかけ、松鶴、笑福亭福松(初代)を加えて「浪花三友派」を旗揚げしました。そして翌年、金沢亭を根城にした桂派に「宣戦布告」となりました。
三友派は派手で陽気な滑稽話を、桂派は人情話を得意とし、双方ともにプライドをかけて芸を競い、大人気を博しました。
「戦争」の仕掛け人であった重助が明治39年に亡くなると、既に顔ぶれも大きく代わっていた両派は和解し、翌年7月、「桂・三友両派大合同興行」を行い、目出度く手打ちとなりました。
その後、一時衰退した上方落語界は、大正年間、爆笑王・桂春団冶(初代)の登場で、人気を取り戻します。戦中・戦後は再び苦難の道を歩むことになりますが、やはり「四天王」と呼ばれた笑福亭松鶴(6代目)、桂米朝(3代目)、桂文枝(5代目)、桂春団冶(3代目)らによって復興の土台が築かれたのはご存じのとおりです。
連載第59 回/平成11年6月9日掲載
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