教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第3章 按司の時代(1)③
【解説】
若い人たちに語りたくて仕方がない仲原の気持ちがそうさせているのだろうか。例によって、仲原の勇み足が目立つ。ずいぶん先の、琉球王国成立の話まで書いてしまっている。その最後の部分は蛇足に思えたが、原著に従って残しておいた。
また前半部分は前回との重複なのだが、読者が読みやすいように文の順序は入れ替えて整えたが、ここは本来割愛するか、前項にまとめるべきところだ。
仲原には悪いが、後日修正して、読者が時系列的に混乱しないように書き直してしまいたい。
平等の概念や戦後民主主義については、初版発行時の時代背景もあり、無理矢理に挿入されていた感じがする。現代の民主主義を語りだせば、明らかに歪み始めている平等概念や、民主主義の変化について筆を進めざるを得なくなるので、こちらは割愛した。仮に書くならば、いまだに筵旗を掲げて、国家間の約束事を保護にしようとすることが民主主義だと誤認している時代に取り残された一部の幼稚な大人に教えるために、戦後民主主義を総括する内容にせねばならないだろう。
その代わりに、内地の読者のために、世界遺産に登録されたグスクについて簡単に名称のみを挿入しておいた。
【本文】
2.三山抗争の時代へ
城(グスク、グシクとも)は沖縄を象徴する日本の文化遺産です。平成12(2000)年11月30日(中央ヨーロッパ標準時)にユネスコは、琉球王国の史跡群から構成される「琉球王国のグスク及び関連遺産群」を日本で11件目の世界遺産(文化遺産)として登録しました。そこには、今帰仁城跡(今帰仁村)、座喜味城跡(読谷村)、勝連城跡(うるま市)、中城城跡(北中城村、中城村)、そして首里城跡が世界遺産としてその名を連ねています。ただし、令和元(2019)年10月31日に火災で焼失した首里城の復元正殿は世界遺産に指定されていませんでした。
さて、12世紀ごろに按司が現れて、各地に城が建てられたことで、村の風景や社会の組織も一変しました。
社会の中心は按司と城となりました。大きな城の中にいるのは、鎧、兜を身に着けて、馬にのった按司、その周りを囲む家来や兵士たち、そして、険しい山の上の城に石や木を運んでいる人々。それらはみな按司が登場する前の時代にはなかった光景です。
按司に支配されるようになった人々は、租税を負担するだけではなく、城を建てたり、道路工事をしたりしました。敵が攻めてくれば戦にも駆り出されました。その一方で按司たちは水田をひらいて生産を増やし、道を作って流通を便利にして、人々の生活を豊かにして、国力を向上させようと競いました。按司たちは互いに攻争し、支配する領地をひろげることに力を注いでいたからです。
按司が登場するまでは、人々の生活は古い習慣と信仰の力で統率されていましたが、武力が強く社会を支配するようになり、信仰の力は弱くなりました。根所や神女は影が薄くなりました。
何よりも武力を尊ぶ按司たちは、それまでの風習にとらわれず、要害の場所ならば、信仰の場であった御嶽でも、所かまわず切り開いて城をつくりました。そして、城の中に小さな御嶽を置いてお祭りをさせました。按司に抱えられた神女たちは、伝統的な祭やまじないの外に、按司が城を建てたことを祝福し、彼らがますます栄えることを祈るようになりました。
時代が進むと、按司の子は按司に、百姓の子は百姓にという風に、身分がだんだん固定して来るのですが、按司が登場し始めた時代は、まだまだ身分は流動的でした。按司が息子に後を継がせても、村を武力で治める実力がなかったり、人々を苦しめたりすれば、他の按司に滅ぼされてしまいます。また、農民の子でも優れた才能を持つ者、野心を持つ者が按司になることもありました。
14世紀になると、沖縄本島では実力のある3人の按司がそれぞれ「世の主」と称し、周囲に領域を広げていきました。今帰仁にあった北山の按司は国頭を、浦添にあった中山の按司は中頭を、南城市大里にあった南山の按司は島尻を支配しました。彼らが抗争した約100年間を「三山時代」と呼びます。
その後、1429年に首里で、按司に代わってひとりの王が強大な力をもつようになると、身分は完全に固定されてしまい、農民は一種の奴隷のようになってしまうのです。
【調べてみよう・考えてみよう】
1.世界遺産になっていない城跡を調べてみましょう。
2.「按司」とはどういう人ですか。
3.沖縄では本土よりも石造のものが多く、早く発達しました。その理由を2つ挙げてください。
4.按司たちはなぜ山の上に城を作ったのでしょうか。
【原文】
二、封建牡会のはじまり
この時代と前の時代とをくらべて見ると、村の風景も社会の組織も、したがって人の心もちも一変しています。
今まで見たこともない城があちこちに見えます。けわしい山の上に石や木をはこんでいる多くの人のむれも見えましょう。よろい・かぶとをきて馬にのった按司をかこんでかけ出す兵士のむれも見えましょう。
いろいろの租税を出さなければならぬ。城立てのかせいもしなければならぬ。敵が攻めてくればいくさにかり出されることもあります。
社会の中心は按司と城であって、今までの根所とか神女はかげがうすくなり、一番たっとい人は按司でその家来どもがこれにつゞきます。
村民の生活は古い習慣と信仰の力でしめくゝられていたものが、今は武力がこれよりも強く社会を支配するようになり、信仰の力はよわくなっています。何よりも武力をたっとぶ武人たちは今までの風習にとらわれず、要害の所ならお岳でもどしどし切りひらいて城をつくり、城の中に小さなお嶽をおいてお祭りをさせます。神女たちは今までのような祭りやまじないの外に、按司の城立てをいわい、彼のさかえをいのることにいそがしく立ちはたらきます。
按司の子は按司に、百姓の子は百姓にという風に身分がだんだん固定して来るがこの時代はまだそこまではすゝみません。わるい按司、弱い按司、おくびょう、ぐどんな子があとをついだら、となりの按司に亡ぼされ、又百姓の子でもすぐれた者、冒険的な者が按司になり王になった例をあとで話します。
首里の王国になり一人の王が強大な力をもつようになると、もう百姓は一種のどれいのようになります。
人間はすべて平等であって生れながらにして上下の差があるはずのものではない。というのが進んだ社会の人のつよい信念です。「人間の自由と平等」を根本の考えとした政治が民主主義の政治です。ところがこの理想を実現するまでにはながい間の年月をへて、日本でも沖繩でも今ようやく民主主義の政治になりつゝある時です。
もしもみなさんの中に自分は按司の子孫だからえらいとか自分の祖先は農民又は百娃だったからつまらん、という考えをもっている人がいたら大へんなあやまりです。
按司たちは又自分の領地をふやすためにおおぜいの人をあつめて水田をひらき、道をつくり生産をふやすこともしたでしょう。又おたがいに攻争して領地をひろげることに一生けんめいになりました。力の強いものがだんだん頭を出して外の者をしたがえ、沖繩本島では三人の按司がそれぞれ「世の主」と称し、それからの約百年間はこの三人の按司の家の争いになります。
これを後世の人は三山とよびます、北山(国頭)は今帰仁、中山(中頭)は浦添、南山(島尻)は大里の按司です。
【問題】
一、昔の城のある所を知っていますか。
二、鉄器と按司とどういう関係がありますか。
三、なぜ沖繩に石造のものが多いか、その理由を二つあげてごらん。
四、昔はなぜ山の上に城をつくりましたか。