外交家列伝⑦ 松岡洋右(1880~1946年)
松岡洋右は、明治13(1880)年、山口県室積の回船問屋に生まれました。苦学してオレゴン州立大学を卒業後、明治37年に外交官となったのですが、第1次世界大戦後の国際協調時代に背を向けるように退官して、南満州鉄道(満鉄)に入社しました。
山本条太郎総裁の下、副総裁として手腕を発揮した松岡でしたが、昭和3(1928)年、関東軍の高級参謀・河本大作大佐らが起こした張作霖爆殺事件は、田中義一内閣を瓦解させるとともに、松岡をも辞職に追い込みました。
その後立憲政友会所属の代議士となった松岡は、昭和7年に、満州事変問題で荒れる国際連盟総会に首席全権として派遣されました。「リットン報告書」に基づく対日勧告案が採択されると、松岡は独断で脱退を決意し、代表団を率いて退場してしまいました。帰国した彼を、まるで凱旋将軍のように国民は迎えました。国民の鬱積した気分を、松岡のパフォーマンスは見事に晴らしたからです。
昭和10年には満鉄に復帰して総裁となりました。この間、関東軍の樋口季一郎少将がユダヤ人を救うために奔走した際、その輸送のために無償で列車に乗車させたのは松岡の英断でした。
昭和15年に松岡は、第2次近衛文麿内閣に外相とし入閣しました。閣僚名簿に松岡の名前をご覧になった昭和天皇は、そのエキセントリックな性格を心配されたのですが、果たしてその悪い予感は的中してしまいます。
「松岡外交」は大幅な人事異動で幕を開けました。そして、平沼騏一郎内閣の時に挫折していた、ドイツ・イタリアとの提携を強化することで独自性を発揮してゆきました。松岡の頭の中では、三国同盟構想はソ連を加えた「四国協商」構想に拡大していました。独ソ不可侵条約が存在しているのだから、これに日ソ間の新たな条約を加えれば、表面上は日独伊ソの提携が成立します。対米戦争を避けるためには、どうしても4国の結束が必要だと松岡は考え、まず日独伊三国同盟に調印しました。
しかし国際関係はそれほど単純なものではありませんでした。中・西欧での侵略を終えた独ソ両国は、鬼門であったバルカン半島にドイツが侵入したことで一触即発の情勢になっていました。ヒトラーは松岡との会談で独ソ開戦を暗示し、日ソ条約の締結に反対しましたが、松岡は自分の構想に酔っていました。松岡は訪欧の帰途モスクワを訪問し、ヨシフ・スターリンとの間に日ソ中立条約を結びました。そしてルーズヴェルト大統領の信任の厚いローレンス・スタインハート駐ソ米大使と面会し、大統領への蒋介石政権との調停を依頼し、対米関係改善に乗り出すつもりでした。
意気揚々と帰国した松岡を待っていたのは「日米交渉」のニュースでした。自分を介さない交渉に対して露骨に不満を示した松岡は、それを棚上げした上で自ら交渉に乗り出し、米国側の不信感を増幅させてしまうのです。そして昭和16年6月、独ソ開戦の報に触れると参内し、昭和天皇に対ソ開戦を進言するなど、近衛も松岡を持て余し始めます。そして彼を更迭するためだけに、一旦総辞職しました。この時松岡は、自分こそ時期首班だと思っていたようです。3回目の組閣をした近衛はあっさりと政権を投げ出し、次の東条英機内閣は松岡が避けようとしていた米国との開戦に踏み切ります。
対米戦争勃発の報を聞いた松岡は、涙を流して三国同盟の締結を悔いたと伝えられています。
連載第30 回/平成10 年11 月3日掲載
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