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ゲッコーパレード出張公演 劇場Ⅱ『少女仮面』

先日行った演劇上演、ゲッコーパレード出張公演  劇場Ⅱ『少女仮面』(2023年3月16日~19日 於・下北沢OFF・OFFシアター)について、その作品制作にあたり私が考えたことを記す。なお、ここに書かれたものは私の主観であって、集団や共演者個々人の考えとは必ずしも一致するものではない。

『少女仮面』あらすじ
宝塚スターの春日野八千代は地下喫茶《肉体》を経営し、日々彼女に憧れてやってくるファンに自身の全てを与え続けていた。少女・貝にそれを見破られた春日野は、共に肉体を取り戻す方法を見出していく。そこにいきなり現れた男にシャツを引きちぎられたことで、男装がバレてしまい、彼女のアイデンティティは崩壊していく。自分を見失った彼女は遂に自身の「貌」と対面する。

ゲッコーパレード 劇場Ⅱ『少女仮面』チラシ文より

12月の初め、ゲッコーパレードのメンバー崎田ゆかりから劇場シリーズの第二作 劇場Ⅱ『少女仮面』の出演依頼を受けた。その際には既に崎田が本作のテーマとして掲げた「貌(かお)」や「出会う」というワードが出ていたと思う。昨年9月、私は山形ビエンナーレでの上演『ファウスト』に俳優として参加したが、自分の住んでいる場所から距離が近い下北沢で、また何度も足を運んだ経験のある劇場で公演を行うことは、私にとっては山形で上演を行うことよりもはるかに遠く、現実味がなく感じられた。私は今作で「水道のみの男」という人物を演じたが、ひとまず最初は自分の演じる役のことは棚に上げ、『少女仮面』そのものが一体どんな作品なのか理解を深めていくことに注力した。
本作や「貌」というテーマを受けて、メンバーの美術家・石原葉からハンナ・アーレントの「現れの空間」やエマニュエル・レヴィナスの「顔」といった思想や概念について調べてみるのが良いのではないかという意見が出た。そこで私も関連書籍を教えてもらい読み始めた。

1月の初めに入り、稽古が開始された。崎田を発起人として集まった9人の出演者たちは私にとってほとんど初めて顔を合わせる面々だった。この頃私は、特別そうしようと決めていたわけではないが、『少女仮面』の作者である唐十郎氏の事績について直接的にあたるのではなく、本作が上演された1968年前後の日本について書籍などを通じて調べていた。また同じ時期、作中で登場人物が語るエミリー・ブロンテの小説『嵐が丘』を読み、非常に感銘を受けた。『嵐が丘』には世界と人間の分かち難さ、人が物語を語ることについて描かれていると自分は受け取り、それらが『少女仮面』と向き合う軸になっていった。

そうこうしている内に2月になり、ゲッコーパレードの演出家である黒田瑞仁との個人稽古がはじまる。本作の稽古では出演する俳優たちと演出家が共同で行う全体稽古と、各俳優と演出家が個人で打ち合わせをし、各々が演じるものを個別の作品として作り上げていく個人稽古があった。ここにきてようやく私は自分の演じる「水道のみの男」について考えはじめた。また黒田が本作全体の演出のテーマとして「宇宙」という言葉を持ち込み、私もある程度その要素も意識し始めた。この「宇宙」について黒田から幾つかの要素の説明を受けたが、「俳優ひとりひとりが担う役が個別の作品であり、ある程度の距離感を保っている」という部分が私の中で印象に残った。ここから私はビデオゲーム『サガフロンティア』や漫画『エクゾスカル零』、小説『水滸伝』といった作品を思い浮かべた。これらの作品群はどれもオムニバス的に複数の主人公がおり、それぞれ関係があるものもあれば無いものある、という構成となっていたからだ。

崎田や黒田がテーマを掲げたように、私はまず「故郷」「役割」といったテーマを自身の作品づくりに課した。これはここ一年ほど私の中で考えていたことでもあり、また私の演じる水道のみの男という役が、空襲によって家を焼かれたことを語ったり、確固とした職業ではないのに強いパブリックイメージを持つ「サラリーマン」という役割を演じているように感じたからだ。やがて黒田と打ち合わせしていくうちに、ここであげたふたつのテーマでは幅が広すぎるためより限定したワード、黒田曰く「メディア」を設定するのがいいのではないか、という流れになっていった。こうしたメディアの設定については私だけでなく他の俳優も個別に行い取り組んでいる。先ほどのふたつのテーマはいったん自分の中に保留したうえで、まったく違うものとして私は「機関車」を設定した。機関車を選んだ理由はいくつかあるが、まず本作の舞台が地下喫茶《肉体》だということが挙げられる。ここは地下鉄工事に表象される外圧によって消え去る運命にある場所だ。私は発汗し水道を求める招かれざる男の姿を、煤を吐きながら火と水の力で動く、地下の駅に似つかわしくない蒸気機関車に重ねた。彼は過去に経験した空襲によって焼け野原となった記憶が過去の物となっていくことが腑に落ちず、時代の流れから取り残され水を求めている。1960年代後半にその役目を終えつつあった蒸気機関車は、私の抱いた水道のみの男の姿を投影できるものだった。
ふたつ目に、機関車と水道が重要なインフラであることが挙げられる。水道は本来、人々にとって大切な存在であるにも関わらず、自身を除く世間はそれを忘れ去っていると水道のみの男は主張する。その主張を機関車に重ねれば、彼自身が人間や荷を載せ走ったインフラと化しているとも言える。地下を巡る水道管は彼が運ぶべき液状の乗客を搭載し、男の腹の底に沈んだ焼け野原の記憶が彼の機関を駆動させているのだ。男が水を求め、《肉体》に幾度も出入りを繰り返しては同じ場所へ舞い戻るさまは、迷宮と化した駅の構内と地下水脈に重なると私は考えた。
後にこのインフラの要素は絵画によってさらに後押しされた。今回の上演では、画家の浅野友理子氏の絵画作品『潤滑根』をお借りして劇場に配置させてもらうことになっていた。『潤滑根』はトロロアオイという植物の根を題材に描かれた作品だ。実際に目にするまで意識していなかったが、植物が地下に根を巡らせ、脈管を通じ水を運んでいくイメージや燃え立つような生々しさは、『少女仮面』全体、そして私個人の作品に対して大きく影響した。

次に自分で自分を語るとはどういうことなのかを考えた。男はサラリーマン風の風貌、蛇口に口をつけて水を飲むという特徴を持つが、水道を求めて徘徊することを除けばただの男でしかなく、自分が何者なのかを語る術を持っていない。『少女仮面』全三場の構成のうち、一場で男が発する台詞は多くはない。実際、一場で男が登場する場面は水道を飲んでいる場面が半分以上を占めている。しかし、彼は三場に入ると途端に自分の身の上話を饒舌に語りだす。三場で再登場した際には喫茶《肉体》の主任が街に火を放った現場に居合わせたことがそれとなく語られるが、その間に何があったのかは想像を巡らせるしかない。彼の変容はこの主任との出会いによって生じたものだが、それは主任が男を支配しようとしたからではなく、燃え盛る風景や世間に迎合しない主任の姿を見て、自分勝手に感動することで自らの在り方を変えているのではないか、と私は考えた。そして何者でもないと思うことすら考えたことがなかった自分という存在に、これまで行ってきた水道を飲むという行為に意味を見出し(主任に見出され)、自ら望んで役割を付与して「水道のみの男」というキャラクターになるのではないかと思ったのだ。彼が自身を戯画化して、自分の体験を語るなら何らかの型を用いるべきだろうと考え、私は数ある中から講談という手法を選択し上演に臨んだ。

私は講談を習ったことはないし、これまでほとんど見たこともなかった。そのためもちろん真似事なのだが、この男にとって最もふさわしい語り口が講談だと確信していた。それは男が三場で突如侠客のような語調になるという点や、講談が外側から物語る部分と内側から役を演じる部分を併せ持っていることが理由にある。講談は本来、話者が自分のことではなく他者を語るものだが、生の自分を自分のまま語るのではなく、客観視されるキャラクターとして自分を捉えれば、水道のみの男は講談の型を利用して自分を語ることができる。
男がその対極である春日野八千代とほんの一瞬肉薄し得たのは、ただ俗な生身を持った男としてその聖域を侵したからではない。春日野の中身を引きずり出せたのは彼が一度でも舞台に立ってしまったからだ。自分には役や名前があると男が思い込んだからこそ春日野に触れることができ、春日野の衣服を暴くことで、彼自身もまた「水道のみの男」ではないことが露呈し、両者は無効化される。水道のみの男を演じた私個人からすれば役割を得たと思い込んだ男は哀れに思えた。しかし彼が彼として納得しているのならば私からそこに口を挟む権利はない。

劇中で水道のみの男は主任と春日野以外の人物とはほとんど関係を結ばない。しかし同じ空間に俳優や絵画、観客の存在があることに男と私は大きく影響を受けていた。同じ空間とは男が他人の目に晒されている場所・時間だけではなく、客席から見えていないOFF・OFFシアターやビルの屋内、下北沢の街路、上演前の時間、そういったものを含んでいる。ある一定の時空間ではないそれらを共有した総体が地下喫茶《肉体》だった。

崎田ゆかりが最初に掲げた『貌』というテーマを媒介に、私はただひたすらに妄想を重ねてそこからどんどんかけ離れていった。そして周囲の人や作品の力を自分の駆動力にし、最終的には自分のエゴと主観を作品とした。

ご来場くださりありがとうございました。


チラシデザイン:石原絵梨

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