処女作 小説『道』

一人の男が、道を歩いていた。男は病人のように青白い顔をしており、やはり病人のように弱りきった表情をしている。そして、俯きながらゆっくりと足を運ぶ。右手はズボンのポケットの中にあり、その少し汗ばんだ手には携帯電話が握られている。
 そこは駅に近く、時折線路を電車の通る音がする。道の両側は商業ビルや飲食店、コンビニが立ち並んでいて、ぽつぽつと人通りもあった。そして、夏のまだ終わらぬ昼どきのアスファルトの街路は、燃えるような日に照らされていた。湿気を帯びた大気は、無気力な微風によって僅かに揺れている。
 男は正確には、“歩いて”いる訳ではなかった。ある人へ電話を掛けるために場所を探しているのだった。さらに正確には、彼は電話を掛けるのを延ばしのばしにするために歩いていた。いつかは先方に連絡しなければならないのだが、彼にはそれが億劫だった。

 駅に近く、白と赤茶のタイルが混ざっている道を、小さな男の子が白の部分だけを踏んで歩いている。その少し先には、十二三羽の鳩が、首を忙しなく動かし地面をつつきながら動いていた。男が横を通っても、鳩は見向きもせず、自分たちの営みを続けている。
  前を見ると、汚ならしい服装で、少し腰の曲がった女がこちらへ歩いてきている。女は男の方を上目に睨み付けているように感じ、男が不審に思いながらも横を通りすぎようとしたとき、老婆は手に持っていた袋を宙に投げ捨てた。次の瞬間にはパン屑のようなものが舞い上がり、それに鳩たちが群がっていた。男はこの急な出来事にいらだった。ただ、やはり彼を無視して食事をしている鳩にか、パン屑を道にばらまいた老婆にか、どちらに怒ればいいのか、男にはわからなかった。他の歩行者は、鳩と彼を横目に見ながら道の端へ避けて通っていった。狂女は無言で歩いていった。
 男は鳩を蹴飛ばしたかった。酒を飲んでいれば、きっと蹴飛ばしていたにちがいない。男は一歩目で足を強く踏みならし、数羽の鳩を飛び上がらせると、また歩きだした。

  道には赤ん坊の鳴き声が響いていた。いつもなら無闇に苛立つところだが、今日に限っては安心感をもたらす唄のように聞こえるのだから不思議だ。乳母車のなかで何かを訴えている幼児に、すれ違いざまに弱々しい笑顔を向けた後、歩きながら男は、とりあえず人のまったくいないところまで行こうと思っていた。実際にはそんなところのないことを知りながら。乳母車を押していた女が赤ん坊をあやす声を後ろに聞きながら、彼は故知らぬ孤独を感じていた。

  駅から少し離れ、先程より人の少なくなったあたりで、男の憂鬱な気分はますます強くなってきた。だいぶ静かだ、車も来ない。彼の視界には、片側にビルが、反対側には駐車場があった。駐車場に設置されている自販機の隣にはゴミ箱がなく、空の缶が律儀に並べて置かれている。
 駐車場を過ぎて、さて携帯のキーを押して電話帳を出したとき、ふと前を見ると蝉の死骸が目に入ってきた。男が横を通った時、彼の足音を聞き付けたのか、儚い生を終えたはずの茶色い蝉は、最期の力を振り絞って泣き叫んだ。彼はまた道の雑音に救われて、はっと息をついた。
  男は、ひたすら憂鬱な気分に浸っていた。虚ろな目は何処かを見ているようで何処も見てはいなかった。もう何も考えたくはない。足は無意識な運動を続けいく。

  もう住宅街に入ったようだ。ふと顔を上げると公園がある。平日の昼間、それもすでに夏休みも終わっているようで、人の姿はない。
 一瞬だけ辺りが騒がしくなった。痩せすぎた黒猫が太った白猫に追いかけられていた。白い方は、その身体全体に泥を纏って汚れていた。不健康な二つの肉体は公園の樹々の間、彼らの道へと消えていった。
  しばらく止まることなく歩いていた彼は、少しの間ベンチに腰掛けようと公園の入口に足を向けた。
 その時、不意にものの落ちる音がして、男は驚いた。周囲を見渡すと道にどんぐりが落ちている。公園の入口に植えられているブナの木から落ちたようだ。なにも、そんなに強く落とすことはないではないか。彼はある種の怒りを込めてブナの樹を一瞥すると、無慈悲にコンクリートの道へと叩きつけられた茶色の粒を樹の根本に置き、公園へ入ることなく通りすぎていった。

 道には、いくつもの曲がり道があった。だが、男はこの道にこだわった。道を選ぶとは考えるということだ。なにかを考えればあの鬱陶しい雑事まで思い出してしまうのだから、ひたすら一本の道を行くのがよいだろう。彼は何も考えずに歩いた。右手で触れていた携帯電話はすでに離していた。

  どれだけ歩いただろう。休むことなく、ある緊張を続けながら歩いていた男の疲労は限界に近かった。先程より俯いて歩き、その腰首の屈折がまた憂鬱の度合いを増していった。男はもう電話なんてどうでもよくなっていた。どうせ、知らせたところで、喜ばれるような内容でもない。いま知らせずにしておいて、後日叱責を受けたところで、対して問題もなかろう。そう考えると、この道のりは文字通り無駄足だ、徒労に終わるわけだ。虚無感が彼に襲いかかり、彼の歩みをさらに重くさせた。


  道はまだ続くようだった。どこへ通じているのかは分からない。どのくらいあるのかは検討もつかない。あたかも人生のようだと、男は足を無意識に動かしながら考えていた。ただ、この道と人生の違いはといえば、引き返せるか否かだろう。道は引き返せる、時間は戻って来ない。そう、人生は引き返せない。とうに日の暮れた、暗くて固そうな雲に覆われた空の下に、男は立ち止まった。

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