「水道橋博士のメルマ旬報」第十二回
2022年2月5日快晴。真冬のパリでは珍しく太陽の日差しに恵まれた土曜日の午後、僕の記念すべき人生初の絵の展示会のオープニングパーティーが開催された。我が家は、犬、娘、妻、僕、と家族総出で参加して、絵を見に来てくれるお客様を迎えた。
僕たちが会場に着くと、まずは画廊のオーナーであるセシルが「展示会おめでとう!」と出迎えてくれた。「とりあえず画廊に展示されている僕の絵を見て」と言われたので、額装され画廊に飾られている自分の絵をじっくり見た。セシルが選んだ額装は、マットを用いず、木の太い枠の額だった。セシル曰く、そもそもマットを用いる額装は好みではないらしく、さらに僕の絵はマットがない方が印象が良いそうだ。
僕が描いた絵なのに、画廊の壁に飾られている僕の絵は、何かよそ行きの顔をしており、僕から遠く離れたものという印象を受けた。人に肉眼で直接見てもらう環境としては、画廊や美術館という場所は、きっと絵にとっても、とても嬉しいに違いない。絵は人に見てもらうことで成長するのでは?となんとなく思う。コロナ禍で、ずっと人々が移動できず、美術館や画廊に行って絵を鑑賞することができなかった時期に、オンラインで鑑賞する機会が増えた。直接肉眼で見ることはできないけれど、それでも間接的にでも絵に触れる機会が増えたのは、良かったと思う。絵を見てもらうことは、見た人と描いた人の間で、間接的にではあるがコミニュケーションが成立していると思っている。僕がSNSで絵を公表してるのは、そういうことだ。
オープニングパーテイーはたくさんの人が訪れてくれて、その中にはアーティストもいた。直接絵を見てくれた感想を直接聞くことができたのも、とても良い経験だった。当然だが、酷評を直接僕に言ってくる人はいない。だから、良いことばかりを耳にすることになる。その場は賞賛の嵐となるので、人によっては有頂天になってしまうだろう。
僕は、良いことも悪いことも、あまり聞かないようにしようと心掛けている。僕自身がそういうことに、実はすごく左右されてしまう性分であると分かっているからだ。だから意識的にそうしている。ただ、絵を見てくれた人がこんなふうに思ってくれたら良いなあ、というのはあって、ある人から「あなたの絵からは、いろいろな物語を感じ取ることができる」と言われたのは嬉しかった。僕の絵が、なんらかの物語を語っているのだとしたら、それは絵を見てくれる人に物語を感じ取る目があるということでもある。そうでなければ、絵と見る人の関係性は成立しない。この展示会で、僕はそれをとても興味深いと感じた。絵を描く作業というのは、もしかしたら、誰かに絵を見てもらい感想を聞き、それを僕がどう受け止めるかまでの過程なのかもしれない。
今回の僕の展示会の作品群は、画廊のオーナーであるセシルが選んだ絵で構成されている。彼女は、僕が色々なものに興味があることを分かった上で、大きく分けて、人物画、風景画、動物画、の中から満遍なく選んでくれたように思える。実際に彼女のセンスが素晴らしいと思ったのは、普段あまり僕が描かない風景画が、一番最初に売れたことだった。しかも、展示していた二枚の風景画全て、オープニングパーティーの日に売れた。
その後も、僕が好きでよく描く対象にする、「絵描き」を描いた絵も売れた。ある画家から、「最初の個展では、二枚も絵が売れたら十分だ。」と言われたことが頭にあったので、初日で三枚絵が売れたことは、嬉しくもあり、少しほっとした。なぜなら絵が一枚も売れなければ、画廊の利益はゼロになってしまうからだ。その場合、画廊オーナーの審美眼がなかったということなのだろうが、それはそれで、僕もなんとも言えない気持ちになる。だから、最低でも二枚は売れてほしいと思っていたので、本当に良かった。
ある人が「展示会の成功を願っています!」と言ってくれたが、展示会においての「成功」とは何だろうかと考えた。
① 絵がたくさん売れる。
それも画廊にとっては利益という意味で成功だろうし、僕もそうだと思う。
② たくさんの人が来場し、僕の絵を見てくれる。
実際にわざわざ足を運び、限られている時間を僕のために使ってくれて、僕の絵と対峙してくれることは、僕にとってはとても嬉しいし、幸せなことだ。
画廊とアーティストでは、立場も違うので、展示会においての成功の定義も違ってくるのかもしれない。きっとアーティスト側の視点から言うと、②のように僕自身が得られる幸福度が高いことが、成功と言えるのかもしれない。でも僕としての理想は、さらに絵が売れることだ。なぜなら、せっかく声をかけてもらい、無償で展示会をさせてもらっていることを考えると、画廊にとっての利益も考えなければならない。だから、絵が売れるということが、もちろん最も好ましい。今日現在、五枚売れているので、少しは画廊の利益になってくれればと思う。
以前、セシルと展示会についての打ち合わせをした際に、僕が最近直接絵の販売をしていると話したことがある。その時、彼女の見立てだと僕の絵は150€の価値があると思うから、個人で売買する場合、150€で売るようにと言われた。そして、絵の金額というのはアーティストにとって、とても重要だとも言っていた。なので、僕の絵を買いたいという人にはその金額を伝えて、それが妥当だと思えない人には、売る必要はないと言っていた。人によって金額を変えたり、たくさん買うから値引きするとか、そういうことは絶対にしない方が良いと言われた。それは、長い目で見た時に、僕を守ることになるというようなことを言っていたと思う。彼女はプロフェッショナルだ。そういうアーティストとしての心構えや考えが、ナイーブな僕には全くなかったので、セシルの言葉で意識が大きく変わったような気がする。自分の絵の金額を、自信を持って言えるようになった、と言い換えた方が良いのかもしれない。
そんなこともあり、画廊で展示販売される僕の絵の値段は額代50€を加えた200€で販売されると思っていた。しかし蓋を開けて見ると、展示会で販売されている僕の絵は250€だった。彼女に、「以前話していた金額と違うのでは?」と話したら、あれから色々考えて、もう少し価値を加えることにしたのだと言われた。今回は、僕にとって初めての展示会ということもあるし、自分の絵の値段は、正直に言えば、自分にとっては検討もつかないというのが本音で、画廊歴20年以上のセシルの審美眼に、信頼も込めて全て任せた。展示されている僕の絵の大きさは、A4サイズで、ドローイングと言われる手法で描かれた絵だ。250€は、今の外国為替相場で円に換算すると、僕の絵は額代込みで約32,000円。額代を除いた絵の金額は200€。日本円では約26,000円になる。僕はこの値段に満足している。なんなら少し過大に評価してもらったと思っているくらいだ。
この値段は、おそらく絵に全く興味がない人には、高いに違いない。実は僕もそう思う。
30,000円といえば、僕が欲しいと思っているMisonoというメーカーのUX10 牛刀300mmという最高峰の包丁と、ほぼ同じ金額だ。それと画廊で販売されている僕の絵の値段がほぼ一緒だと思うと、めちゃくちゃ凄い値段なのでは?と思う。見方をかえると、その包丁が安過ぎるのでは?と思わずにはいられない。そう思うと、絵の値段というのは高い。だから、絵を買ってくれる人は本当にありがたいとしか言いようがない。僕が、自分の絵に、もうすでに十分な値が付いていると思うのも、理解してもらえると思う。
一度付いた値は、基本的に下がることはないとセシルは言っていた。今年の8月1日から10日間、東京銀座にあるギャラリーゴトウで開催される僕の展示会の絵の値段も、今回のパリの画廊で付いた絵の値段がベースになると思う。
芸術作品の価値と言えば、映画「ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人」をみなさんはご存知だろうか。有名無名に関わらず、自分たちが良いと思う現代アートを収集している夫婦の話だ。僕は、この映画の中に登場する夫婦が、収集する作品は「自分達のお給料で買える値段」で「小さなアパートにも収まるサイズ」と言っていたことが忘れられず、僕もそのことを踏まえて絵を描いている。つまり、僕がA4サイズにこだわっているのは、部屋に飾りやすいサイズだと思っているからだ。それに、絵は大きくなればなるほど、その大きさに比例して値段も高くなる。だから、今後少しづつではあれど、僕の絵の値段が上がったとしても、たかが知れているのだ。そういう意味でも、今描いてる絵の大きさは、今後も続けていきたいと思っている。
映画の中で、妻のドロシーが「美意識は人によって違う、夫をハンサムと思わない人は大勢いる、でも私にはキュートで魅力的な人」と言っていた。この言葉に全て集約されているのではないのだろうか。そういう風に思える人は幸せなんだと思うし、こういう人だからこそ、自分の美意識で有名無実に囚われず、自分が良いと思った作家の作品を買ってきたのだと思う。
実は、この映画に出てくるハーブとドロシーのような存在が、僕にも居る。その人はフランスの南西部に住んでる73歳の女性で、僕が絵を描き始めて一年も立たない頃にfacebookで知り合い、僕の絵のファンになってくれた人だ。そして彼女は、自分の誕生日の自分へのプレゼントとして、僕の絵を買いたいと言ってくれ、二枚も購入してくれたのだ。彼女からは「あなたは必ず世に出るから、描くことを続けてください」と言われた。僕にとって、それは大きな励みとなった。
先日、その女性から新しいメッセージが届いた。僕が今パリで開催している展示会の最終日に、わざわざ来てくれるというのだ。南西部からパリに出てくるには何時間もかかる。僕も南西部に住んでいたことがあるから、日帰りでという距離ではないということはよく知っている。しかも彼女の年齢を考えると、ちょっとパリまで、ということでもないだろう。こんなに嬉しいことがあるだろうか。彼女への恩返しではないが、画廊で飾られている絵を彼女に見てもらえることは、僕にとって特別なことだ。
画廊に飾られた絵を見て、彼女はきっと喜んでくれるに違いない。僕は彼女に会ったら、彼女の目を見て、全く誰も知らない僕の絵のファンになってくれたこと、絵を買ってくれたこと、それがモチベーションの一つになり、絵を描き続けた結果、パリと東京の画廊から展示会の話をもらったことを話し、心から感謝の気持ちを述べたいと思う。そんな幸福に満ちた時間を想像しながら、今日も僕は絵を描いている。
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