「水道橋博士のメルマ旬報」第九回
最近、絵を依頼されて描くということを始めた。依頼者の意向に沿った絵を描くということは、今まで一度もしたことがなかった。正直、僕にそんなことができるのだろうか?とも思ったが、僕は「始めたばかりの頃はなんでも経験した方が良い」という考えの持ち主なので、やってみることにした。
こういう言い方をするとなんだが、お金を頂いて新たなことに挑戦できるなんて、願ったり叶ったりだ。ただ、描いた絵が、依頼者が求めているものではなかった場合、どういう反応になるのだろうか? 依頼者に満足してもらえるものを描けるのか?と恐ろしくも思った。でも、基本的には、SNSに掲載している僕の絵を気に入って頼んでくれたのだから、そういうことにはならないだろうし、ならないような絵を描きたいと思った。
一番最初に依頼されて描いた絵は、依頼者の飼い犬の絵だった。ビーグル犬で顔にイボがあるのが特徴だ。依頼者からの話を聞いて、ビーグル犬は年をとるとイボが出来るということを初めて知った。
僕は写実的に描くということをほぼしてこなかったし、あまり興味がない。だから写真をそのまま描くということはしない。何枚か送ってもらった犬の写真から、インスピレーションが湧いたものを選び、そこからイメージを膨らませて描くというスタイルだ。
表層的に見えている情報から、僕に生まれてくる感情を捉えて、それを紙に描く。しかし手を動かして描くという身体の運動によって、自分の頭でイメージしていたものと実際に描かれたものには誤差が生じる。そうした誤差も含めて、描きながら少しづつ形になっていく過程で、その都度変化する自分の気持ちやアイデアを交えて描いて行くという作業になる。
こう文章にしてみると、僕の文章表現能力が追いついていないこともあり、もっと言いたいことは違うような気がするのだが、言葉にはできない部分があることは隅に置いて、とりあえず文章にしてみた。
何枚か写真を送ってもらえたことで、僕はそのビーグル犬に会ったこともないが、飼い主の目線、どういう気持ちで犬と一緒に暮らしてきたか、犬と飼い主の関係性も少しは想像できる。飼い主と一緒にどんな散歩道を歩き、どんな風景を見てきたのか。その時に感じた匂い。いたずらをして叱られることもあるだろう。大好物は何だろうか?そんな想像の広がりが、絵を描く時に少なからずとも参考になり、影響されると思う。描いた絵から、そういった僕の思いが少しでも反映されていれば良いと思う。
僕は、写真を絵で忠実に再現することの意味は何だろうか?と考えることがある。写真のような絵の写実的な技法の素晴らしさには感服するが、実はそういう絵に僕の心は動かない。描かれたものに、描く人による解釈があり、どう感じていて、どう考えていて、どう見えているか、ということに興味がある。
絵を見た人に何かしらの感情が生まれるとしたら、それは、描いた人の解釈や視点に共感できたり、新しい見方、考え方に興味が湧いたり面白いと思った時ではないのだろか?と思っている。
「対象に想いを馳せる」これが依頼されて絵を描くことに、とても重要なことではないかと、依頼された絵を描き始めたばかりの僕が思ってることだ。絵を描くことは、技術的なことよりも、それ以外のことがとても大切ではないかと思う。ある対象について、描く人が向き合ったときの視点、描く人にとっての意味、価値、解釈が、描く人の身体を通して絵として再現されていく。もちろん再現するには技術が必要なわけだが、技術だけでは絵は描けない。
それは料理に置き換えても同じことが言えるのかもしれない。技術は、回数を重ねることで誰でも習得し、上達できるものだと僕は思う。実際、僕も料理の仕事を始めて、いろいろなことができるようになった。しかし、技術だけではない何か大切な要素が、人の心を動かす料理には含まれているように思うのだ。
と、ここまで書いてみて、自分でも言葉でうまく整理できているのか、自信がなくなってきた。抽象的な言い方で、とても解りにくいのだが、僕自身もうまく書くことができないので仕方ない。それでも、なんとなくだが理解しているつもりなのだ。
ひとつ確実に言えるのは、これからも定期的に絵の依頼があれば、積極的に受けて描いていきたいと思っているということ。僕の視点や解釈に興味がある人がいたら、遠慮なく連絡をいただけたらと思う。