補.死

 2020年11月現在。再発ユーイング肉腫、ステージ4。僕は末期がん患者で、今続けている治療は現時点であまりポジティブな効果は出ていません。ユーイング肉腫に対して効果の高い保険適用の抗がん剤は、現在他に無く、化学療法自体が難しいような体調です。左脚は太ももから切断し、身体障碍者にも認定されました。残された右脚も麻痺し、ほぼ寝たきりです。確実に死は近づいていますが、むしろ発病後の方が気力は充実しており、健康であれば絶対にしなかったことにも挑戦しました。残り時間を慌てて充実したものにしようとしています。


 なかなか絶望的な状況ですが自分の死は仕方ないものだと諦められます。もともと小さい時からいつ死んでもいいと思って生きていましたし、弟のように自殺を考えた時期もありました。他の人が僕のように感じるものかどうかはわかりませんし、共感して欲しいとも思いません。ただ僕にとっては、自分の病はさておき、周りの人達に対する迷惑は耐えられるものではありません。「人に迷惑をかけたくない」。傷の痛みより、病の苦しみより、この忍耐の限界を超えた自立性の喪失が、病気発症からの4年間、僕にとって最大のストレスでした。たくさんたくさん「無理しないで」、「こけないように」と声をかけていただくのですが、無理なことはそもそもできないし、こけないように常々気をつけています。多分普通の人より。誰も「頑張れ」とは言ってくれません。この言葉を聞くたびに自分はもう普通の人ではないのだと少し落ち込みます。
 親切な人たちに囲まれて、色々なことに手を貸していただき、この上文句を言いたいのではありません。ただ、自分のことを自分でできないということは、強いストレスになります。僕は自分を変なやつだと思っていますが、特別な人間などと思ったことはありません。おそらく一定程度同じようなストレスを抱く人がいるでしょう。
 繰り返しますが、決して自分の周りの人を責めるのではありません。ただこれを読む人は心の片隅にでも、その事を留めておいてほしいと思います。もちろん僕のように感じない人の方が、もしかしたらもっとたくさんいるのかもしれません。ただ、自分の周囲にいる病気の人、障碍を抱えた人と少しの心のすれ違いを感じたとき、「過度な親切」、「過度な心配」が原因かもしれません。そのことを少し強調しておきたいと思います。


 社会人になってから10年。弟の死と自分の病に直面し、死について考える時間は確実に増えました。仮にも社会科の教員です。大学時代の専門は日本史でした。その時出会った昭和の戦中の、ある民間研究者の神道についての論考を、今も神社を訪れるたびに思い出します。神社とは神を祀るところである。「かみ」とは上にあるもの(神、上、頭、髪)。「まつる」とは2つのものの出会うところ(待、松、祭)。松の葉っぱは2本が1組になっています。要するに、神社とは尊いものに出会う場所だという内容でした。
 日本人は亡くなった人を神社に祀ってきました。そしてその社に、会いに行き、感謝を述べ、力を授かる。僕にとって神社はそういう場所でした。亡くなった人をいつまでも神として大切にする。昔の人が大切にしたものを、どうして僕たちが蔑ろにしていいでしょうか。神とは畏れ敬うべき何かで、それはご先祖様がずっとその場所で思い描き、出会いを繰り返した尊いものです。神社と神道は、僕に「感謝」の気持ちについて深く考えさせてくれました。感謝は尊いものを大切にすることだと僕は解釈しています。また神社は死が終わりでないことを証明してくれます。神社を舞台に連綿と続いていく日本人の命の継承の儀。神社には死の匂いはあまり感じられず、生の喜びに満ちた祭りの賑わいがふさわしいと思います。


 仏教もまた日本人にとって大切なものです。日本においては神道と、おそらくほぼ同じ時期に形を整えられたものでしょう。梅原猛さんの仏教に関する著書群は、僕に仏教哲学の魅力を存分に語ってくれました。昨年亡くなられた時は1人で悲しみに沈みました。仏教は東西の哲学を全て包み込むような巨大さと、精緻さを持っています。今日の科学は全てそこに含まれているといっても過言ではないとさえ感じます。日本でも中国仏教を基礎として独自の宗派が多数栄え、今も大切にされています。
 しかし、仏教は神道とは対照的に、強い死の匂いを感じさせます。それは仏教哲学が、ありとあらゆる生き物は四苦(生、老、病、死)から逃れられないという、冷たい事実から始まるからだと思います。釈迦の涅槃は余りにも静かな死として描かれます。そして仏教は涅槃の後に仏が到達する境地を、巨大で、光り輝く荘厳な世界として描きます。それと同時に、仏教にはインド古来の輪廻の思想が含まれます。死ねば、別の生き物として生まれ変わり、また、新たな一生が始まると考えられています。神道とは違った形で死が終わりでないことを教えてくれます。仏教からは死と苦への諦観、世界の壮大さ、そして自分の小ささを教わった気がします。あまりにも巨大な世界の中で、あまりにも小さな自分が何をするか。自分の誠の道はなんなのか。


 僕にとって自分の死を受け入れることはあまりにも簡単です。弟がそうしたように。死が終わりでないことを知っているつもりですし、自分の死の小ささにも気づいているつもりです。ただ、それでも、生きているうちに、人との関わりの中で何を与え、与えられるか。それをもっともっと楽しんでいたい。いくら勉強したところで、そういう思いが決して消えないこともまた事実です。

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