4.発病

 結婚して1年経った2015年の秋、僕の生活は相変わらずバレーボール中心でした。しかし、このころ左脚のふくらはぎに鈍い痛みを感じるようになっていました。体を動かす仕事なので筋肉を痛めたかなと深く考えていませんでした。しかし、2ヶ月、3ヶ月が経っても痛みは消えず、そのまま年が開けた頃には、かなり強い疼きが1日に数回生じるようになりました。痛みで眠れない夜も続いていました。じっとしていても痛みは消えず、冷やしたり、マッサージしたりしながら、ただただソファで痛みに耐え、気がついたら気絶するように眠っていて、そしてまた痛みで目がさめる。二度と戻りたくない長い夜が続いていました。


 1月のある日、痛みはありましたがまだ歩行は可能で、我慢しながら近所の中学生たちの集まるバレーボールチームで指導をしていました。練習中、軽いジャンプの瞬間でした。不意に決定的な痛みが左脚に走りました。筋肉の切れるような強い電気の走ったような強い痛みで、はっきりと足を引きずって歩くようになりました。この時の痛みにはさすがに限界を感じ、翌日すぐに病院に行きました。レントゲンを撮ってもらいましたが、骨に異常は見られず、痛み止めをもらって1週間様子を見ることとなりました。しかし痛み止めを飲んでも全く痛みは収まらず、相変わらず眠れない日が続いていました。翌週は別の病院でMRI検査を受けました。ここで直ちに大学病院に紹介が決まります。

 この時点でも僕は自分の身体の異常を軽く考えていました。どうせすぐ治るでしょ、と。


 大学病院ではすぐにPET検査の指示が出ました。がん検査です。この時もまだ僕は自分の身に何が起きているかわかっていませんでした。もしかして手術かな、くらいの軽い気持ちで検査を受けました。この時29歳。大きな病気など一度もなく、骨や筋肉もどちらかと言えば丈夫でした。結婚などの行事を除けば有給休暇などとったこともなかったし、土日もほぼ部活で無休でも、疲れは充実感で消し飛んでいました。
 検査の結果は、左脛骨と周辺部の筋肉に悪性腫瘍の疑い、とのもの。その後すぐに大学病院で手術をして、腫瘍細胞をとり検査が行われました。この検査手術で入院する時に母が見舞いに来ました。たまたま知り合いだった看護師さんと話していた母が、突如また涙を流しました。何を大げさなと思いました。まだ僕には何もわかっていませんでした。

   一週間後、診断結果はユーイング肉腫。日本では年間100人程度が発症する小児がんの一種でした。


 結果を聞いてもまだ自分の状態がわかっていませんでした。それに気づいたのは治療方法について説明を受けた時です。

   抗がん剤を2週間に1回のペースで5回投与する。そして左脚の脛骨と周辺の患部を切除、患部を除いた部分に反対の右脚の腓骨を差し込み繋ぐ。骨の接合が確認できたら抗がん剤をさらに10回。おそらく1年程度の入院になる、と。

   自分が想像していたものとは、あまりにもかけ離れた治療計画でした。骨の切除。抗がん剤。1年の入院。今まで無縁だったものが突如目の前に現れました。ここではじめて僕は悪性腫瘍というのがなんなのか気になりはじめます。なんのことはない要するにがんなのです。
 僕はいつものように平気なふりをしていました。ただ、自分の心と身体の中に何か冷たいものが広がっていくのを感じました。弟の死を知ったあの時と同じ。つくづく自分の弱さが嫌になる瞬間です。周りの景色がまた、ここで色を変えた気がしました。さっきまでと全く別の世界。隣で説明を聞いていた妻の目を直視することはできませんでしたが、僕よりも冷静に見えました。もしかしたら薄々感づいていたのかもしれません。感づいていて僕にそれを悟らせないようにしていたとしたら。やはり僕は取り返しのつかない愚か者です。

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