11.2度目の化学療法

 ユーイング肉腫の再発に対しては確立された治療がありません。すべての治療がやってみなければわからないし、効果の出る確率も低いものでした。死がまた一歩近づいたのを感じました。


 方法の少ない中で治療方針が決まりました。以前の治療でも使っていた抗がん剤のうち、IEの2つを数度試してから、薬を変えて白血病患者がよく行う大量化学療法を行うという方針が決まりました。早速8月からすぐにIEの投与が始まり、今度は3週間に1回のペースで投与を行いました。治療を行うと体の状態はすぐに戻り、腰の痛みもゼロ、この時も身体の回復を実感できました。抗がん剤治療自体は慣れたもの。それもまた同じ病院の、同じ病棟で、同じ生活です。


 結局、IEによる治療を5回行い、PET検査が12月にありました。転移していた脊椎などについては反応がかなり小さくなっていましたが、今度は左脚の手術でつないだ脛骨に炎症反応が残っているのが問題でした。なんらかのばい菌による感染だろうと言われました。ここで、脚の炎症の治療を先にするか、予定通りのスケジュールで大量化学療法を行うために左脚を切断するか、という選択を迫られます。白血球の数が減るため脚を切らずに大量化学療法を行うことはできないようでした。また、抗がん剤治療は時間との戦いでもあります。ばい菌感染による炎症の治療には半年以上かかる可能性もあり、その間にがんが進行する可能性が高いと聞きました。
 正直言って切断は嫌でした。そもそもはじめて腫瘍が見つかった3年前の段階で、切断しても構わないと医師に伝えていました。しかし、その時は周りからは切断はすすめられませんでした。結局脚を切るという選択をせず、骨を移植してつないだのですが、その手術はかなり痛いものでしたし、手術が終わってもうまく骨が繋がらず、再度ロッキングプレートを入れる手術もしました。手術後のあの眠れなかった2夜は、2度と経験したくないほどつらいものでした。その後も自由のきかない脚との生活が続き、ずっと自分の脚ではないような違和感は消えません。しかも調子が悪いと浮腫んだり腫れたりしました。こんな脚ならいらないという気持ちは腫瘍だと判明する前、痛みが出たころからずっと抱いていました。そもそも何のために今まで辛い思いに耐えてきたのか。自分の努力を否定されるような気がしました。そういう悔しさが消えませんでした。


 それでも結局脚を切断することに決めます。1月末に左膝の上から切断の手術。眠っているうちに左脚は無くなってしまいました。前日の晩は風呂で左脚とのお別れでした。自分なりにバレーボールに真剣に打ち込んできたつもりですし、身体を動かすことは大好きでした。すでに自由に動かせないとはいえ、なくなるとなると…。32年分の感謝を込めてしっかり洗いました。
 切断手術後の脚の痛みは大したことなく、3日もすれば痛みは全く感じませんでした。幻肢痛がありましたが、一生懸命自己暗示をかけました。「お前の脚はもうない」と。麻酔がない時に戦争などで脚を失った人の痛みを想像しました。事故で脚を失う人の気持ちも。自分だけじゃないと、自分の痛みを癒そうとする防衛本能かもしれません。この後は義足中心の生活になります。傷口が綺麗になって腫れがひいた段階で、義足の採寸が始まりました。


 大量化学療法はそれから1ヶ月ほどあいて2月の末からスタートでした。この時に使われた抗がん剤はアルケランとブスルフェクスです。一時的に整形外科の病棟から無菌室のある血液内科の病棟に移り、無菌室での治療になります。抗がん剤を大量に使うため、白血球の数値がほとんどゼロになってしまい、免疫力が極度に低下するからです。清潔な状態を保つため無菌室では細かなルールが沢山ありました。床に落ちたものは自分で拾ってはいけないとか、生物(なまもの)は食べてはいけないとか、家族以外の面会は無しとか。今までの化学療法より格段にリスクが高いようで、主治医も少しピリピリしていました。僕はとりあえず最後の治療と思って楽しもうと決めていました。実際に副作用は下痢と軽い口内炎程度でしたし、至って順調でした。それでも血液検査の結果が正常値に近くなるまで2週間くらいかかり、結局3週間くらいで無菌室を無事脱出し、退院することができました。

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