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20240303学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第25章-2 いかにして裏切りは起こったか

20240303

[いかにして裏切りはおこったか]


1914年7月23日、国際社会党事務局はブリュッセルで会議を開いた。この会議では、労働者会議第104回大会を8月9日に開催することを決定した。もともと第104回大会は8月23日に開くことになっていたが、これを繰り上げた。この大会では、労働者のための国際的に統一した政策を打ち出すことを予定していたが、開催されることはなかった。国際中央組織の弱さと、主だった諸党がこの会議を要求することをしなかったためである。


8月2日、ドイツのレギエン一派の労働組合幹部たちは、経営者たちとの間に社会平和・ストライキ排除の協定を結んだ。翌8月3日、ドイツ社会民主党の幹部たちは、国会議員団の会議で78票対14票で戦争支持を決めた。前日にはすでに党の方針は決まっていたのだ。この決定は国会に持ち込まれ、党の議員110人が全会一致で軍事公債に賛成投票した。党幹部会でこれに反対していたのは、リープクネヒトとルクセンブルグなど、ごく少数だった。カウツキーは棄権した。しかし、彼らも党の規律に従うしかなかった。中央派のハーゼが党の戦争支持声明を読み上げた。これは、ロシアの侵略という化け物を担ぎ出し、祖国防衛のスローガンを受け入れ、危機に際して我々は祖国を見捨てないであろう、というものだった。

 オーストリア、フランス、イギリス、ベルギーなどの社会党も、ドイツの社会党と同じような行動をとった。ヨーロッパの交戦国の中でロシアとセルビアだけは違った。ブルガリアではテスニヤキ派(頑固派社会党)が戦争に反対投票した。ヨーロッパ以外では、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの党が戦争に反対投票した。

 労働組合としては、フランスのサンディカリストは戦争反対のゼネストを是案していたにもかかわらず、戦争公債に賛成した。アメリカ、ロシア、イタリアなどの労働組合は反対していた。

 党として中立の立場をとったのは、スカンディナヴィア、スイス、イタリア、アメリカなどであった。しかし、のちにイタリアとアメリカが参戦することになり両国の社会党は分裂してしまった。

 第2インタナショナルは、8月3日に崩壊したといってよい。中立諸国の党だけがわずかに維持しているような状態で、事実上の崩壊だった。この崩壊の責任は、右翼社会民主主義にあったが、その中でも特にドイツ社会民主党は大きな責任を負わなければならなかった。それは、ドイツ社会民主党が第2インタナショナルの指導的な党であり、労働者もその指導を頼りにしていたのだにもかかわらず、この党はブルジョア民族主義を丸出しにし、戦時公債に賛成し、そうすることによって世界労働運動の国際的な戦線を跡形もなくなるほどに粉砕したのだ。

 カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが生み出した党は、今やカウツキー、エーベルト、レギエン、ノスケ、シャイデマン、ジンゲル、アウアー、ダヴィドなどの手中に落ち、世界中の労働者が寄せていた信頼を恥知らずにも裏切ったのだ。


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