20230512学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第4章-2
20230512
ウィリアム・Z・フォスター
『三つのインタナショナルの歴史』
[国際労働者協会の設立]
1862年、ロンドンで万国博覧会が開かれた。フランスから300名、ドイツから12名の労働者が参加し、イギリスの労働組合運動家たちと労働者インタナショナル設立の計画を討議した。
1863年7月22日、ロンドンにおいて、イギリスとフランスの労働者が共同で、クラカウ反乱弾圧への討議とポーランド独立要求の集会を開いた。
この2つの討議から、インタナショナル設立へと進むこととなる。
1863年11月ごろ、イギリスの労働組合指導者であるジョージ・オッジャーが、フランス労働者に手紙を書いた。労働者の国際的行動が必要ではないか、という内容であり、フランスの労働者は特に返事をしなかった。しかし1年後、ロンドンでの会合で会った労働者を経由して、ついに返事を出した。
1864年9月28日、ロンドンのセント・マーティンズ・ホールで、このフランスの労働者の「報告」を行うための会合が開かれた。会場は、労働者や外国生まれの亡命者など多くの出席者で溢れ返った。もちろんマルクスも出席していた。E・S・ビーズリー教授が議長となり、オッジャーがフランスの労働者に送った手紙を読み上げ、その中身は次のことを提案していた。
「フランス、イタリア、ドイツ、ポーランド、イギリス、その他およそ人類の幸福のために力をあわせようとする意志のあるすべての国々の代表者が、いっしょになった集会をひらこう。われわれの議会をひらこう。諸国民の平和の運命をにぎる大問題について、論じあおう。」
そして、フランスの代表者のひとりであるトランが、この手紙の返事であるフランス労働者の回答を読み上げた。その返事の提案事項は、
・労働者の当面の困難を検討すること
・万国の労働者の団結の要請
・新しいインタナショナルの本部をロンドンに置くこと
・イギリスの労働者新聞『ビー・ハイヴ』を公式の機関紙とすること
・会費は暫定的に任意制とすること
・新しいインタナショナルは暫定的に中央委員会が指導すること
・ヨーロッパの各首都すべてに支部委員会を置くこと
などであった。
この提案の決議のために、21名の総務委員会が選出された。
ここに、インタナショナルが産声を上げた。
1864年10月、総務委員会は何度か会合を開き、この新しいインタナショナルを「国際労働者協会」という名称とすることを採択。総務役員が選出され、議長にジョージ・オッジャーが、名誉書記長にウィリアム・R・クリーマーが選出された。ドイツ担当はマルクス、アメリカ担当はP・フォックス。ほかに、イタリア、ポーランド、スイス、フランスの各担当通信書記が選ばれた。さらに、イギリス、フランス、イタリア、スイス、ドイツ、ポーランドの各国から合計55人の臨時中央評議会の代表委員が選ばれた。
国際労働者協会の第1回大会は、1865年にブリュッセルで開くこととなった。
国際労働者協会の政治綱領と規約は、イタリアのマッツィーニの使者であるL・ウォルフが発案した。しかし、その内容が組織を秘密団体にしてしまうようなものであり、マルクスに反対され否決された。オーウェン主義者であるウェストンの草案も否決された。結局、マッツィーニ色の強いル・リュペの草案が可決されたが、内容は、草案をまとめる小委員会にいたマルクスによってほとんど変更され、最終的にマルクスが書いたもののような綱領と規約になった。それは、当然であるが、『共産党宣言』の影響を強く受けたものとなっている。
(国際労働者協会は、1889年に第2インタナショナルが創立されてから「第1インタナショナル」と呼ばれるようになった。それまでは単に「インタナショナル」と呼ばれていた)