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20240503学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第28章-1 ロシアのブルジョア革命

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【第28章 ロシアのブルジョア革命(1917年3月)】


1917年1月、バクーとニジニ=ノヴゴロドで大規模なストライキが起きた。1月9日にはモスクワの労働者の3分の1がストライキに加わった。世界はこのロシアでのストライキの発展に度肝を抜かれた。

3月3日、ペトログラードの巨大なプチロフ工場の労働者もストライキに突入した。3月9日、ボリシェヴィキは大デモ行進を組織した。その時には約20万人の労働者がストライキに参加していた。翌日の3月10日、ストライキはついにゼネストになった。労働者は「ツァーリを倒せ!」「戦争反対!」「パンをよこせ!」という旗を掲げ戦った。

 3月11日には、ペトログラードの軍隊は人民に発砲することを拒否し、6万人の兵士がデモに参加した。すると労働者は監獄を押し開け、投獄されていた革命家たちを釈放した。そして逆に、ツァーリの将軍や役人を逮捕し始めた。

 このような事件がロシア国中に起こり、3月14日、革命は勝利を収めた。当時のロシアの旧暦では2月にあたり、2月革命と呼んだ。

 ツァーリは退位した。帝国国会の議長で地主でかつ帝政派であるロジャンコを長とする反動家グループが中心となり、臨時政府がつくられた。数日後には新しい政府が結成された。その首相にはリヴォフ公、外務大臣にはミリューコフ、司法大臣にはケレンスキーがなった。

 このブルジョア民主主義革命によって政治権力は、レーニンが言ったように、「経済的にはすでに長いこと我が国を支配してきた」資本家的地主とブルジョア階級の手に移ったのである。しかし、ブルジョアジーの支配に対しする労働者の挑戦も生まれつつあった。


 労働者は、1905年の革命を模範として、ツァーリが退位する前に、労働者・兵士のソヴェトを組織し始めていた。やがてほとんどの都市にソヴェトができた。レーニンはこう言っている。「こうして、二つの権力、二つの独裁の独特な組み合わせが生じた。すなわち、臨時政府に代表されるブルジョアジーの独裁と労働者・兵士代表ソヴェトに代表されるプロレタリアートと農民の独裁が、それである。二重権力が生まれたのである。」(党史『ソ同盟共産党(ボ)小史』)

 とはいえ、ブルジョア政府に対するソヴェトの挑戦はまだ潜在的なものでしかなかった。当時のソヴェトは、ほとんどがメンシェヴィキとエス・エルに握られており、彼らは盛んに活動してソヴェトにおける代表の席を占領しようとしていた。そして、その権力をブルジョアジーに引き渡そうとしていたのである。

 この時、ボリシェヴィキ党の指導者の多数が監獄や流刑地にいた。レーニンは亡命地におり、スターリンとスヴェルドロフはシベリアの流刑地にいた。


 この革命は、レーニンの打ち出したボリシェヴィキの政治方針が正しかったことを証明した。それは、革命が起きるときには労働者大衆からなる軍隊は革命家の陣営に馳せ参じるだろうということである。それはつまり、ブルジョア革命はプロレタリアートが指導者であり、ツァーリズムに対する闘争では大多数の農民が革命勢力として頼れる存在となることである。さらに、第2インタナショナルの宣伝が誤りであったことも証明した。それは、近代の軍隊の前には人民の武装蜂起は不可能だというものであった。農民は反革命勢力だとしたメンシェヴィキ的改良主義の傾向を打ち破り、革命によって戦争に対抗するというレーニンの偉大な綱領の正しさは証明された。


[なぜ革命はおこったか]


 ロシアの労働者階級は、野蛮な半封建的専制君主制に直面していた。労働者は、飢餓賃金のために一日に11時間から13時間も奴隷のように働いた。工場内では圧政に苦しみ、経済的にも政治的にも団結権を全く持つことができず、ストライキや抗議運動では血の弾圧を受けた。このような状況の労働者は階級意識が強く、革命的だった。こうした特徴は、ボリシェヴィキの輝かしい指導者レーニンによって一層強化された。

 農民も工場労働者と同じように過酷な支配にさらされていた。土地は徹底的に奪われ、税は死ぬほど重く、残酷な高利貸しに縛られていた。

 労働者も農民も、政府の都合で何百万人も徴兵された。そしてツァーリの帝国主義のために多くが戦死していった。ロシア人民は多数の民族がいるが、彼ら少数民族は無惨は抑圧のもとに置かれた。ユダヤ人には野蛮な虐殺(ポグロム)がくわえられた。なんとロシア正教会は、この恐るべき略奪や圧迫と、完全に一心同体だったのだ。


1900年からのロシアは、資本主義の発達とプロレタリアートの増大の時期であった。1913年までにはロシアの工業生産は62%増えた。基礎産業(石炭、鉄、石油、鉄道など)のほとんどは、フランスやイギリス、ベルギーなど外国の資本家の所有物であったが。その成長の裏には、労働者や農民の厳しく過酷な状況があったのである。


1905年の革命が失敗すると、戦闘的労働者階級は再び前進し始めた。1914年1月、ペトログラードで14万人の労働者がストライキに入った。バクーやその他多くの中心地でも戦いが行われた。この年の前半、ロシア全土でおよそ142万5千人の労働者がストライキを行った。

これらの闘争は、世界大戦によって中断された。ツァーリのニコライ1世は、戦争を革命の予防策に利用した。しかし、ツァーリの思惑はロシア軍に無惨な結果をもたらした。夥しい数の死傷者、政府官僚の汚職と腐敗、人民の間に広がった飢餓、産業と運輸の完全な崩壊等…それらはツァーリの政治的・軍事的指導の無能さから引き起こされたものだ。人民にとっての戦争の無意味さとボリシェヴィキの優れた指導が、革命を生み出すのである。日露戦争からは1905年の革命が起こり、第一次世界大戦からは1917年の革命が起こった。


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