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20230519学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第7章-2

20230519
『三つのインタナショナルの歴史』

[ブリュッセル大会]

国際労働者協会第3回大会
1868年9月6日から15日
ブリュッセル(ベルギー)

ベルギーは西ヨーロッパの中で一番反動的な国であった。そのため、ベルギーで大会が開催されたことは、インタナショナルの力が増大していることを示していた。開催規模もこれまでより大きく、出席代表議員は合計で99名であった。この時もマルクスは出席していない。

ブリュッセル大会の主な議題は、戦争反対決議であった。
他の議題として、ストライキの問題は激しい議論ののち、労働者の正当で不可避な武器であると認められた。
協同組合も支持されたが、その運営は小ブルジョア的な商売根性に対して鋭い批判が加えられた。工場で新しい機械を導入する場合に労働者の発言権を認めるべきだという問題について、プルードン主義者は、協同組合を手段として相互信用の組織を通して、生産者は機械を所有できるようにすればよいと主張した。このような案は強い反対を受けた。また、プルードン主義者は労働者交換銀行の設立を決議させた。この銀行は資本による支配から労働を解放するはずだという。
土地所有に対するインタナショナルの全般的な考えについては、プルードン主義者は大敗北した。プルードン主義者は、商店主や農民の利益を優先し、土地の国有化に反対した。しかしブリュッセル大会では賛成130、反対4、棄権15だった。大会は、鉄道、耕地、山林、運河、道路、電信等を含む土地の国有化を要求する決議を採択した。これは、プルードン主義者の決定的な敗北である。大会は根本的にいつでも共産主義の組織だった。
これ以降、プルードン主義者のインタナショナル内での勢力は、非常に小さなものとなっていった。

[高まる資本家の攻撃]

1864年9月にインタナショナルが創立されたとき、労働者の国際的組織という考えは極めて聞きなれないものであったため、その力は過小評価されていた。ブルジョアジーの中でも「まともな」者の中には、インタナショナルを政治的に利用できると考える者もいた。イギリスの自由党、イタリアのマッツィーニ派、フランスのボナパルト派などであった。しかし、インタナショナルが活動を始めて少し経つと、これらのブルジョア分子は目を覚ますことになった。多数のストライキに強力な指導を与えるインタナショナルに、雇い主たちは肝をつぶしたのだ。さらに、ヨーロッパのストライキ破りをもう国際的に利用することができなくなったことは、彼らにとって大打撃だった。

反動的な新聞は、ストライキや政治闘争についてインタナショナルを「ばけもの」呼ばわりした。これらの新聞社は、インタナショナルの行動の一つひとつを歪めて報道し、中傷した。
フランスでは、ナポレオン3世のとき、警察はインタナショナルの会員を逮捕、起訴した。対象となったのはたいていがプルードン主義者だった。1868年3月から1860年6月までの間に3回、多数のインタナショナル会員の有罪判決が下された。その後フランスではインタナショナルは非合法化され、これが反動攻勢の始まりとなった。その数年後には、ついにインタナショナルはヨーロッパ全体で非合法団体とされてしまった。

[インタナショナルの発展]

インタナショナルは、経済的・政治的活動の結果、いくつかの国で急速に発展した。発展において、ストライキ指導は大変重要なものだった。
イギリスでは、1869年の労働組合大会において、全ての組合にインタナショナル加盟を主張し、多くの組合が加盟した。
またフランスでは、1869年にインタナショナルの推定会員数は20万人に達していた。
ベルギーでは、石炭業と製鉄業のストライキに続き、各産業の中心地に20以上のインタナショナル支部ができ、中には数千人の会員数を持つものもあった。ジュネーヴだけでインタナショナル会員数は何千人も増えた。
アメリカでは、若い労働組合運動からインタナショナルは強い支持を得ていた。それは「全国労働同盟」であった。アメリカでは1864年に、外国から労働者を雇い入れ、旅費を賃金から相殺できるという法律ができていた。旅費を賃金から相殺できれば資金がなくても契約によってアメリカに労働に来ることができるので、同盟の指導者たちは、ヨーロッパから多数の労働者とストライキ破りがアメリカに入ってくることを警戒しインタナショナルに助けを求めていた。

多くの西ヨーロッパの国々では、労働組合の加盟に比べて個人加盟者の支部も増えていった。アメリカも例外ではなかった。1857年に「ニューヨーク・共産主義クラブ」は1867年にインタナショナルの支部となった。ドイツでは1869年に「全ドイツ労働者協会」もインタナショナルに加盟した。
全国的な労働者政党をつくろうという動きがはっきりとし始め、こうした政党がその後労働者の政治的な国際主義全体の土台となっていった。一番大きな発展はドイツで進みつつあった政治運動で、1869年には社会民主党(社会民主労働党)となった。アメリカでは1868年に全国労働改革党ができたが長続きしなかった。イギリスでは労働組合は非常に活発だったが、社会民主党や労働党をつくるという動きになっていなかった。

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