20230522学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第9章-1
20230522
『三つのインタナショナルの歴史』
【第9章 パリ・コンミュン(1871年)】
フランス=プロイセン戦争が起きた4日後の1870年7月23日、総評議会は労働者の国際的連帯を求める宣言を発表した。この宣言はマルクスが書いた。内容は、戦争の責任はフランスとドイツ両国の支配者にあり、ドイツはこの戦争の防衛側に立っている、というものだった。そして、ドイツの労働者に対しては、この戦争が征服戦争に変わるかもしれないと警告した。さらにマルクスは、戦争の結果がどうなろうと、フランスの第二帝国は終わるだろうと述べた。
この戦争に対してさまざまな国の労働者は、軍事公債に反対し、戦争反対を訴えた。ドイツでも、フランスでも。アメリカの移住労働者も。ただ、ラッサール派は軍事公債に賛成していた。
[フランス共和国建設される]
1870年9月2日、セダンでボナパルトが無条件降伏すると、9月4日、パリの民衆は立ち上がった。ボナパルト政権を倒し、共和制を打ち立てた。
そして、1871年2月8日には、選挙で新しい議会ができた。ところが、この新しい議会の構成は、3分の2が王党派、残りはブルジョア共和派だった。小ブルジョア急進派はその隙間を埋めるくらいの少数だった。
この事態にバクーニン主義者が、パリ、リヨン、マルセイユ、ブレストなどで新政府反対の暴動を起こそうとした。しかし全て失敗に終わった。ブランキ主義者も反乱に加わった。ブランキは1870年10月31日からパリを支配していたが、それも手放さざるを得なくなった。
1870年9月9日に、インタナショナルはもう一つの宣言を出していた。これもマルクスが書いたものだった。この文書でのマルクスの言葉はこうである。
「ドイツ側ではいわゆる防衛戦争だったこの戦争も、もはやはっきりと征服戦争になった。なぜならビスマルクがフランス領アルサスとローレンを占領する決意であることが明らかになったからだ。もしそうなったら、ついにはもう一度防衛戦争を起こすことは確実だ」
宣言は、ドイツの労働者に対しては、「領土併合の企みに反対し、フランスとの名誉ある講話を要求せよ」と呼びかけた。フランスの労働者に対しては、「フランス・ブルジョアジーの裏切りを警戒し、あらゆる機会をとらえて労働者階級自身の力を強化せよ」と戒めた。
マルクスとエンゲルスは、反動的共和政府を革命によってひっくり返すにはまだ早いと考えていた。この考えは、バクーニンやブランキとは逆であった。
パリを包囲したドイツ軍だったが、ビスマルクはパリ攻撃をためらった。パリには軍隊が約20万いると伝えられていたからだった。また、ビスマルクはパリのプロレタリアートの革命的闘争精神をよく知っていた。
パリの軍隊はたいていが国民軍で、主に労働者からなっていた。2月15日には25名の委員による中央委員会を選出しており、これがパリを支配していた。フランスの首相ティエールも革命的なプロレタリアートを恐れていた。パリをドイツ軍に引き渡そうとしていたティエール政府は、2月26日に降伏条約に署名し、パリを放棄した。
[コンミュン誕生]
1871年3月18日午前3時、ティエールは自分の軍隊に国民軍の大砲250門を接収させようとした。反乱するパリを無理やり降伏させようとしたのだ。
パリ市民はすぐにこの接収を中止させた。婦人が先頭に立ち、民衆は話し合いや実力行使に訴えた。そうして11時にはティエールの軍隊は完全に打ち破られ、パリは民衆の手に落ちた。市庁舎に赤旗が翻った。中央委員会が臨時政府を立てた。
反乱を指導したのは主にブランキ主義者だった。しかしブランキは政府に捉えられ、コンミュン存続中に刑務所に監禁された。マルクス主義者はまだパリでは少数だったが、蜂起には積極的に加わった。
「パリのプロレタリアは、支配階級の失敗と裏切りとのなかにあって、公務と管理を自分たち自身の手ににぎることによって時局を収拾すべきときがきたことを、さとった」と、中央委員会は宣言した。
しかし、革命と、闘争の結果生まれた政府とは、全て行き当たりばったりの「間に合わせ」であった。
本来なら、ティエール政府を打ち破った3月18日に、中央委員会はティエール政府の指導者たちを逮捕し、反動政府の所在地であるヴェルサイユに進軍すべきだった。ところが中央委員会がもたもたしている間に、政府軍には再編成のための時間を与えられた。ティエール派の反動たちはパリを攻撃し、内乱の火ぶたを切ってしまっていた。
自分の権威に自信が持てない中央委員会は、地方選挙の準備を始めていた。
3月26日、選挙が行われた。さらに4月15日に補充投票が行われ、92名の市会議員が選出された。これがパリのコンミュンをつくったのだ。
陸軍、財務、食糧、外務、労働、司法、公益事業、情報、一般保安の各部の長9名からなる執行委員会が選ばれた。
コンミュンとしては、ブランキ主義者と新ジャコバン党が多数を占めた。プルードン主義者のグループも多くいた。マルクス主義のインタナショナル会員は18名だった。
コンミュンの基礎は、労働者が指導するプロレタリアートと、都市小ブルジョアジー革命的同盟にあった。大ブルジョアジーは、遊休工場と職を失った30万人の労働者を残して、その多くがパリを逃げ出してしまっていた。
4月1日、コンミュンは最初の綱領発表を行った。
綱領の要求は、
・共和制を承認し強化すること
・コンミュンの絶対的自治権をフランス内のすべての地域に広げること
・これによってあらゆるコンミュンにその権利を完全に保証すること
・あらゆるフランス人に人間として、市民として、また生産者としての自己の能力と適性を十分に発揮できるよう保障すること
などであった。
また、パリが求める政治的統一とは、あらゆる地域が自らの発意によって自発的に連合すること、あらゆる個人の能力が人民の福利と自由と安全という共通の目的の中で自由に任意に協力することだと、綱領には書かれていた。地方自治権の協調は、第二帝政下のばかげた独裁に対する反動であった。また、当時のフランス労働者階級の間には無政府主義が広がっていたため、この考えの反映でもあった。
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