20231029学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第21章-2 1905年ストライキ敗北の教訓
20231029
『三つのインタナショナルの歴史』
[革命の最高潮と反動]
1905年10月、鉄道労働者のゼネラル・ストライキが起こり、全国に膨れ上がった。
このストライキの中心は8時間労働日の要求であり、鉄道以外の産業の労働者、公務員、学生、そしてインテリゲンツィアも参加した。労働者の数だけでも150万人ほどが参加した。
農民の蜂起も国内のあちこちで起こり、陸軍・海軍でもいくつか暴動が起こった。
クルックは「世界始まって以来最大の政治的大衆ストライキ」と呼んだ。(W.H.Crook:The General Strike)
労働者代表ソヴェトが、モスクワやペテルブルグをはじめ多くの都市や町に生まれ、農民もこれに加わった。
10月17日、ツァーリは人民に「政治的改革」と「立法国会」を約束した。このツァーリの提案にボリシェヴィキはボイコットした(ボリシェヴィキは、ツァーリが最初に「諮問国会」を提案した時もボイコットした)。一方メンシェヴィキは、蜂起によってツァーリ打倒を目指してはいなかったので、ツァーリの提案に賛同した。『ソ同盟共産党(ボ)小史』には、こう書かれている。「メンシェヴィキは、強調主義のどろ沼に転落し、労働者階級にたいするブルジョア的影響の伝達者となり、実際上、労働者階級内のブルジョアジーの手先となった。」
革命の頂点は1905年12月のモスクワ蜂起であった。11月にロシアに帰っていたレーニンは、まだツァーリの警察から逃れていた。党の呼びかけで起きた政治的ストライキは反乱に成長し大衆の間では広く支持されたが、メンシェヴィキをはじめとする日和見主義者からは断固たる反対を受けた。ペテルブルグ・ソヴェトを指導していたトロツキー、パルヴースなどは、武装蜂起の呼びかけに応えないよう訴えた。しかし12月20日、バリケードはたちまちモスクワ中に広がり9日間にわたり闘争が続いたが、ツァーリの圧倒的な兵力の前に敗北した。クラスノヤルスク、ペルミ、ノヴォロシースク、ソルモヴォ、セヴァストポリ、クロンシュタットでも蜂起が起きたが、いずれも敗北した。
1905年の革命の失敗についてはさまざまな理由があった。例えば、労働者と農民の安定した同盟がなかったこと、農民の大部分がツァーリ制打倒の戦いに立ち上がる気持ちになっていなかったこと、ツァーリ政府が西ヨーロッパの帝国主義列強から受け取った政治的・財政的な援助(20億ルーブリ)などがあったことなどであるが、最も重要な原因は、党そのものが政治的に分裂し、メンシェヴィキがあらゆる局面をサボタージュしたことであった。
レーニンはこの1905年革命を、1917年10月大革命のための「舞台稽古」とのちに呼んだ。
[インタナショナルと革命]
1905年の革命は、中国、ペルシャ、トルコ、そして中東や極東などさまざまな国の労働者の間にも大きな影響を与えた。そして、全世界の資本家層も同様であった。
革命の効果のひとつとして、労働運動の内部でイデオロギー上の分化を促進したということがある。右翼はますます意識的・攻撃的となり、中央派はますます具体的な形をとり右翼へ傾き始めていった。そのため、左翼は明確な綱領と組織を持つ方向へ進まなければならなくなった。
革命は多くの差し迫った教訓を国際運動にもたらした。例えば、現代の条件のもとでの武装反乱の適用、大衆的政治ストライキの方法と結果、ブルジョア革命と社会主義革命との関係、将来の社会の基礎としてのソヴェトの役割、強固な規律あるマルクス主義党が絶対に必要であること。そして、メンシェヴィキ、無政府主義者、社会革命党員の裏切り的な役割も。
こうした教訓を、左翼(またある程度までの中央派も)は、世界の労働者共通のものにしようと努力した。レーニンは革命について多くの論文を書いた。ローザ・ルクセンブルグもこの方針に従った。
しかし右翼日和見主義者は、どんな犠牲を払ってでも労働者をこの教訓から遠ざけなければならないと考えた。彼らがとりわけ必死になったのは、ロシアの労働者が武器を取って蜂起したことの意義を、西ヨーロッパの労働者に悟らせてはならないということだった。エンゲルスの論文を歪めたことで、この問題は永久に葬り去ったつもりでいた。(第16章参照。エンゲルスは『フランスにおける階級闘争』のなかで、近代軍事技術の発達のために、革命達成の伝統的手段とされてきた市街地のバリケード戦闘が以前より難しくなったことを書いていたが、印刷するときにリープクネヒトが編集長であった『フォルヴェルツ』は、この重要な部分を削り、エンゲルスは右翼と一致して革命における武装闘争を捨てた、という意味あいになるところだけを残した)
そして彼らは、プレハノフの「武器を取るべきではなかった」という言葉に逃げ道を求めた。武力闘争に訴えるやり方は、ロシアが封建的で未開であることの証拠であり、労働者がおおむね選挙権を持っている西側の資本主義諸国では起こりえないことだと主張して、この問題を片付けようとした。
しかし、ゼネラル・ストライキは労働者が自らあみだした偉大な現代革命の武器であり、その意義を曇らせることは、右翼日和見主義者たちにはできなかった。
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