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20230903学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第18章-3 国際社会党事務局という一応の事務局はできたけど…

20230903

『三つのインタナショナルの歴史』


「軍国主義と戦争に反対する闘争」

1900年のパリ大会では、軍国主義と戦争の危険が強まっていることが議題に取り上げられた。これは、第1インタナショナル、第2インタナショナル、全ての大会と同様であった。

ローザ・ルクセンブルグがこの問題に関する主な決議案を出した。その内容は、戦争の起源が資本主義にあり、三つの主要な手段でこれと戦うというものである。

その三つの手段とは、

①青年を教育し組織すること

②社会党議員は議会で軍事費に反対投票すること

③国際的危機に際して戦争反対の統一デモを起こすこと

であり、その決議案は満場一致で採択された。


植民地主義についての大会の立場は、「帝国主義諸国の植民地政策に対し労働者は積極的に戦わなければならず、また、植民地諸国には社会主義政党が確立されなければならない」というものであった。大会は、ミルラン事件に関する敗北を除けば、左翼的な感情が支配していた。


「国際社会党事務局」

第2インタナショナルは、1889年の創立以来10年間、世界的な中心組織を全くつくらずに活動してきた。これは組織としては弱点であり、はっきりとした政治的・組織的な欠陥を正さなければならないという声は絶えなかった。そのためパリ大会では、国際社会党事務局が設立されることが決まった。

この事務局はブリュッセルに置かれ、有給の書記が1名、年次予算は1万フランであった。事務局は、パリ大会に出席していた各国の代表団から2名ずつ出すこととし、全体で約50から70名となった。1年に4回会議を開催することとし、事務局の主な運営はベルギー労働党の執行委員会が仕切っていた。議長はヴァンデルヴェルド、書記はカミーユ・ユイスマンであり、いずれもベルギー人である。


第2インタナショナルに加盟できる要件も、この大会で決まった。インタナショナルに加盟できるのは社会主義の一般的原則を承認した組織(政党、労働組合、協同組合など)に限られた。

そして、第2インタナショナルの大会はこれまで様々な名で呼ばれてきたが、「国際社会党大会」と呼ぶことが決められた。


国際社会党事務局ができたことは第2インタナショナルにとって一応前身ではあったが、第1インタナショナルの総評議会とは比べ物にならないレベルのものだった。

総評議会は真に指導機関であり国際的な精神と行動を培ったが、国際社会党事務局の業務内容といえば、連絡業務や統計などであった。

書記の業務は大会の招集、決議や報告書や議事録の作成、情報収集などの多少特殊な業務だった。

したがって、国際社会党事務局は、大会の決定を実施する機関でもなければ、これを解決する機関でもなかった。大会の決定を実施するかしないかは、各国の党やその他の加盟団体の自発的な行動に任されていた。



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